作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(171)

 

「待てっ!」

 審判の合図に、浩之と英輔は、一瞬膝から力が抜けて、倒れそうになる。

 しかし、どちらも、それを必死に止めて、審判の声を待った。ここで倒れるわけにはいかない。試合が中断されていても、レフェリーストップはあるのだ。

 いや、試合が中断されているにもかかわらず、お互いに飛びかかりそうな鋭い視線を相手に向けている。

 しかし、それは逆効果だ。二人が正常な判断をできないほどのダメージを負っていると判断したら、審判は試合を止めるだろう。

「二ラウンド終了だ、お互い一分の休憩を取って」

 審判が、その間にわって入る。ダメージや、試合に集中した状態では、審判の声が聞こえない者も大して珍しくもない。審判は、二人の判断力が取り立て落ちているとは思わなかったようだった。

 しかし、綾香は、そんな訳はないことぐらい、すでにお見通しだった。

 審判が、ちらりと特別席の方に目を向けるのを見て取ったからだ。その先には、エクストリーム開催者、「鬼の拳」北条鬼一が、人を喰ったようなニコニコとした笑いを作っていた。

 間違いなく、最初から北条鬼一は審判に言い含めておいたのだろう。でなければ、とっくに終わってもいいだけのダメージを浩之も英輔も受けている。

 審判がレフェリーストップをかけるのは、選手の安全のためだ。格闘技は、起源もそうであるし、行き着く場所も、そのどちらも人を殺す技術なのだ。

 審判は、その線を見極め、危険だと判断すれば、試合を止めて、選手の命をまもらなくてはならない。とくに、こんな危険なエクストリームという舞台では、審判が努めなくてはならないものは、最重要と言っていい。

 それを、北条鬼一は、エクストリームを私物化して、選手の命を危険にさらせているのだ。教育者云々の前に、そもそも人間として間違っている。だからこそ「鬼の拳」なのだろうが。

 浩之と英輔は、その凶悪で、つでに権力まで持ってしまった、鬼の犠牲者と、言えなくもない。

 でも……今は助かったわ、北条のおじさま。

 善し悪しは別にして、綾香は綾香なりに、恩を感じて、心の中で北条鬼一に向かってお礼を言っていた。

 どっちが致命的なダメージを負ったのか、綾香にも判断できない。動くためには問題になるダメージはわかるものの、全ての審判の判断の基準まで、わかっているわけではないのだ。

 浩之が勝っていたかもしれない。しかし、英輔が勝っていた可能性も否定できない。だから、試合を止められない状況というのは、白黒つけるまで、つまりKOかギブアップか、本当の意味でのレフェリーストップでもない限り、決着がつかない。

 勝ってるかもしれない、負けているかもしれない。その不確かなものに賭けるなら、不確かでも、もっとましなものに賭けたい。

 つまり、これから勝てる可能性に賭けたいのだ。

 とは言え、帰って来た浩之の状態は、実に「ボロボロ」という言葉が似合うものだ。

 その場に、今度こそへたり込むようにしりもちをついて、浩之は顔色をしかめた。動いたものだから、肩が痛んだのだ。

「浩之、痛いかもしれないけど、声出しちゃ駄目よ」

「……」

 浩之の顔が、ひくっと痙攣するが、しかし、浩之は嫌がらなかった。綾香が肩の状態を見ようとしているのは間違いなく、返事をするよりは、むしろ歯をくいしばって、痛みに耐える方が重要だと思ったのだ。

 浩之の右肩を、綾香はなでるように触る。様子を見ていたまわりの選手が、ざわっ、と一歩引くのが感じられた。目も見張るような美人の綾香が、真剣な顔をして、細い指で鎖骨辺りをなでるように触るのだ。

 絵になる以上に、どこかコケティッシュで、格闘技にのめり込んで他のどのような場所と比べても、おそらくかなりの純度で純情な若い選手達には、刺激が強すぎる光景だ。

 さらに、綾香の目がうっすらと涙ぐんでいるものだから、余計に色気がある。それが単に肩の様子を探るために、少しでも浩之に痛みを感じさせないように、慎重に触っている結果だというのがわかっている葵でも、少し嫉妬してしまうほど、絵になる。

 だが、言ったように、綾香は本気も本気だった。一切の失敗を許さない触診なのだ。

 試合場の反対側で、殴られた場所に氷袋を当てるあちらに背を向けたまま、綾香は顔をしかめた。しかし、顔をしかめただけで済んだのは、綾香の度胸があれあこそだ。葵ならば、叫んでいたろう。

 どちらにしろ、浩之にはそれだけで何が起こっているのかわかってしまったようだ。そもそも、怪我をした本人だ。わからない訳がないだろうが。

「大丈夫よ、折れてはないわ」

 それは嘘ではない。しかし、完全に本当ではない。むしろ、十分な嘘なのかもしれない。

 大丈夫な訳がない。鎖骨にひびが入っている。

 まだ骨がずれた形跡もなく、これならば、固定して安静にしておけば、そう時間はかからずに直せるかもしれない。いや、人間離れしたところのある浩之だ。平気な顔をして一週間ぐらいでどうにかしてくるような気さえする。

 しかし、もしそれが本当だとしても、どうしようもない。今は試合中で、一週間どころか、一日だって待ってもらえない。

「そうか」

 浩之は、それでも表情を崩さなかった。その必死さが、綾香の胸をしめつける。浩之のために何かしてあげたい、と綾香に似つかわしくない思いを抱かせる。

 綾香は、葵の持って来ていた、救急用具の中から、テーピングのためのテープを取り出す。

「とは言っても、ダメージも大きかったようだし、念のためにテーピングしとくね」

 言うが早いか、綾香は無造作に浩之の肩をテーピングしていく。エクストリームではテーピングは許されている。要するに、怪我をしても、それを取り繕って試合を続けることが可能なのだ。

 だが、それもどれだけ続けられるか、綾香にも自信はない。

 テーピングでそれなりの効果はあるだろうが、そもそも鎖骨は固定が難しい。それに、あまり強く固定すると、今度は動きを阻害する。

 必死で骨のひびの痛みを我慢して戦っているのに、動きを阻害してしまっては、我慢の意味もない。

 下手をすれば、このまま折れてしまうだろう。ここで浩之を止めるのが、一番いいのかもしれない。エクストリームは、次の年にもあるのだ。

 浩之を止めるべきか、そのままやらせるべきか。綾香は、その決断を、簡単に下した。

 考える間でもない。綾香は、浩之に勝ち方は教えて来たが、棄権のやり方など、教えたこともないし、そもそも棄権しろなどと、今まで言ったこともない。

 テーピングをまくときに、じっと綾香を見る、その真剣な眼差しに負けたというのもある。

 浩之が、戦いたい、そして、勝ちたいと願っているのだ。どの口でそれを止められるだろうか。

 ここで選手生命が絶たれることだってあるのを、浩之が本当に理解しているのかどうかはわからない。鎖骨なので、選手生命まで深刻に考えていない可能性もあるが、折れば、今年のエクストリームは断念せざるをえないのだ。

 いや、ひびだって、十分な問題ではあるのだ。それこそ、常識を度外視して一週間ぐらいで回復してもらわければ、本戦には間に合わないだろう。

「ま、今の浩之には何を言っても無駄よね」

 綾香は、小声で浩之にささやくと、肩をすくめた。浩之は、それを綾香のGOのサインだと判断した。仕方ないではないか、綾香には、今の浩之を止める理由がないし、戦って勝つ姿を見たと思ってしまったのだから。

 こういうときは、むしろ単純な葵の方が得と言える。

「センパイ、私からは一言だけ、がんばってください、としか言えませんが……がんばってください、私、信じていますから!」

「ああ、ありがと、葵ちゃん」

 綾香が正確に対応して、葵がはげます。案外、分業ができていていいのでは、と綾香は、そんなことを考えていた。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む