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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(174)

 

 わざと痛めている方の右を前に出す。

 苦肉の策としか思えない構えだった。痛めた方を、わざわざ、攻撃を受けやすい前に持っていくなど、正気の沙汰ではない。

 しかし、浩之は勝機のためには、正気であることさえ捨てるつもりだった。

 右腕を前に出したことで、より、右腕を英輔がつかみやすくなったことはもちろんわかっている。それでも、これしかないのだ。

 無事な方の左腕は、渾身の攻撃のために、奥に引いておかねばならないのだ。

 痛めた右肩をぶつけることを考えると、そのときの痛みを予想して、身体が縮こまるのがわかる。その次に、攻撃をつなげられるだけのものが残っているかも怪しいところだ。

 しかし、方法はこれしかない。腕だけのパンチで、英輔を倒せるとはとても思えない。出すなら、今自分のできる最大の威力を出さなければならない。

 大丈夫だ、肩をぶつけると言っても、それは背中に近い部分で、鎖骨からは離れている。痛みはあるだろうが、我慢できないほどではないはずだ。

 もちろん、そんなわけはない。十分に浩之が気絶するだけの痛みを与えてくれるだろう。だが、自分でも信じていないことを考えて、身体を無理にでも安心させる他に、浩之にやれることはない。

 その構えをどういう風に受け取ったのか、英輔の構えはかわらない。英輔にとってみれば、どんな思惑があったとしても、捉まえたい右腕が前に来ているのだ。それ以上望むべくこともなく、その腕を狙うだけだった。

 普通の浩之なら、英輔はそう思わせておいて打撃で来るだろう、と読んでいたろう。しかし、今はその余裕は、浩之にも英輔にもない。

 もう、裏をかかれたら終わりだった。裏をかかれても逆転するには、すでに浩之の中に残っている力は少なすぎる。

 唯一の救いは、英輔もおそらくは同じ状況だということだ。浩之一人が不利というわけではない。英輔とて、もう限界のはずだ。

 いや、限界であって欲しいと思う、俺の甘さか。

 英輔が限界ではないのなら、まだ余裕があるのなら、浩之は無様に負けるのだ。英輔もぎりぎりであると、望まない方がどうかしている。

 どちらにしろ、浩之には、こうするしか道はないのだ。

 一歩、浩之が前に出る。間合いをはかるだけの、遅い動きだ。だが、合わせるように、英輔も、一歩、前に出る。

 それはお互いにゆっくりとした動きだが、すでにどちらの制空権内にも入っていた。

 水の中を動かすように、ゆるりと、英輔の腕が浩之の右腕に伸びてくる。英輔も、浩之の思惑どうこうを無視して、正面から、浩之を撃破するつもりなのだろう。その意思表示としては、十分なものだった。

 さっきまでは、お互いにスピードを落としながらも、素早く動こうとした気配があった攻防だったが、この攻防は、お互いに、わざとゆるやかに動こうとしていた。

 問題は、スピードではない。タイミングだった。

 英輔が飛び込んでくる、または腕を極めに来るその一瞬に、浩之は飛び込むのだ。そうでなければ、対処されるかもしれないのだ。

 反対に、英輔は、浩之の読みを外せば、捉まえて投げるなりして、おそらく勝てるだろう。急ぐ必要はない。浩之にタイミングをずらせることさえできればいいのだから。

 英輔の手が、浩之の右手首を、軽くつかむ。しっかりとはつかまない。完全につかめば、それはそれで英輔の勝ちなのだが、腕に意識が集中した時点で、浩之は飛び込むつもりでいた。

 近距離での停滞は、実際のところ、三秒もなかった。

 英輔の手が、浩之の腕をしっかりとつかんで、力を入れた瞬間に、浩之は前に飛び込んでいた。唯一危険視するのは、巴投げだけだ。低い体勢で飛び込む浩之に、他の投げ技は通用しない。

 浩之の身体が、予想以上のスピードで英輔に向かって動く。そう、それは、浩之の予想をはるかに超えたものだった。

「っ!」

 何が起きたのかもわからずに、それでも浩之の身体に緊張と、肩に軽い痛みが、走った。しかし、対処するには、言ったように、何が起きたのかわからなかったのだ。

 浩之の身体が、不自然に前に泳いだ。肩をぶつけるどころの話ではなかった。前への力を完全に流されて、浩之に大きな隙ができる。

 英輔は、技をかけなかったのだ。そのかわり、自分は後ろに下がりながら、浩之の腕を引いたのだ。

 前に出ていた浩之は、自分の勢いと、英輔の引く力で、あっさりと体勢を崩された。

 柔道では、基本の崩しだが、崩しこそが柔道の奥義と言われることもあるように、この崩しは、試合を決める十分な結果を出したと言っても過言ではなかった。

 前に流れた浩之は、それでも、視線を英輔に向けていた。何が起こったのかはわからなかったが、自分の体勢が崩れたのは間違いなく、その崩れたままでも、次の英輔の攻撃に対処しようという、冷静な判断が働いたのだ。

 それは、この極限の状況において、十分ほめられるべきことだった。冷静さは、多くの危機を、跳ね返せる可能性を生むのだ。

 英輔の左脚が、跳ね上がっていた。

 浩之との試合では、一度も見せなかった、このときのために取っておいたといわんばかりに、狙い澄まされた、蹴りだ。

 それを、予想しながら、最後には切り捨てていたはずの浩之は、英輔の蹴りに対して、自然に反応していた。

 バシュッ!

 見事な中断回し蹴りだった。柔道家とは思えないような、スピードであり、打点の高さであった。風を切る音からも、威力は十分に予測できた。腕を掴まれている以上、浩之も、動ける範囲は限られていた。

 しかし、今回は、その腹よりは、胸を狙うような高さがあだとなった。

 前に流れた浩之は、そのまま身体を前にあずけて、英輔の中断回し蹴りの下をくぐっていた。もしもっと打点が低ければ、肩をぶつけて、何とかしのいでいたろうが、下をかいくぐったことによって、ダメージをまったく受けずに、英輔の必殺の、隠し技とも言える蹴りを避けた。

 腕をつかまれていても、下に逃げる道があったのだ。

 前に身体が流れているとは言え、蹴りの下にもぐりこんで避けた浩之には、またとないチャンスがめぐってきた、はずだった。

 そのまま、英輔の脚は、戻ることなく、浩之の上を通過して、マットの上に降りようとしていた。

 浩之は、この状況に、わけもわからないのに、背筋の凍る恐怖を感じていた。

 

続く

 

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