とりあえず、試合後に綾香に殴られなかっただけ成長したのか?
勝った勢いで、ついつい葵が抱きついてきたのに反応してしまったが、その後待っているはずだった綾香の鉄拳制裁はなかった。
怒っていいのか、喜んでいいのか迷っているような綾香は、お約束とも化している浩之への攻撃を、してこなかった。
「綾香、何か悪いもんでも食べたか?」
体育館から外に出て、そろそろ日が沈もうとしている中で、浩之は大胆にも、というよりも命知らずにも、そんなことを綾香に訊ねた。
「何でよ?」
「ほら、葵ちゃんにだきつかれても、殴って来なかったじゃねえか。何か調子悪いのか?」
横で、改めて自分のやったことを言われた葵は、小さくなって顔を赤らめた。もちろん浩之から見れば初々しいかわいい葵の反応だが、それがかわいければかわいいほど、後の綾香の攻めは苛烈になっていくはずだった。
「あのねえ……私は何でも拳で解決するバイオレンスな人間じゃないわよ」
バイオレンスでは、あると思う。拳でなくとも、脚とか肩とか地面とか、相手を血の海に沈める方法はいくらでもあるのだから。
しかし、驚いたことに、そこまで言っても、綾香が殴りかかってくる気配はなかった。
「あの、綾香さん、本当に何かあったんですか?」
「葵まで……何、二人とも、私に拳をふるわせたいの?」
二人は、そろってバカみたいに、首を横にふった。綾香が暴力を振るわないなら、それに越したことはない。色々と命に関わることだし、それだけははっきりさせておきたい話だ。
「私だって思うところがあるのよ。結局、浩之、私の助言なんてちっとも聞かないで勝っちゃったし」
「何だ、いじけてるのか?」
「いじけて悪い?」
事実、綾香は少しいじけているのだ。勝利の抱擁を先に葵にやられたのも含めて。
勝利の抱擁は、まあ、仕方ない。感情というよりも、もはや反射で動く葵よりも速く浩之に抱きつくというのは、綾香にはなかなかできない。こう見えても、綾香はけっこう恥ずかしがり屋なのだ。葵のように、瞬間的に恥を忘れることはできない。
そこは仕方ないと綾香も納得はできないが我慢できる。しかし、こと格闘技において、自分の意見が役にたたないというのは、それ以上に腹が立つのだ。
綾香は、自分の天才性を疑っていない。格闘技に関して言えば、本当の意味で世界最高だとも自負している。
その綾香の助言を無視して、しかも実力的に上の相手と戦って、浩之が勝ってきたのだ。面白いあろうはずがない。
だが、面白くないなら浩之に当たれば済む話なのだ。それに二の足を踏むのは、やはり浩之が勝って嬉しいというのがある。
負けた浩之を慰めるというのも、もちろん悪くない。寺町に負けたときの浩之を見ると、胸が痛かったが、同時に、少し嬉しくもあったのだ。
しかし、やはり勝つ方が何倍も嬉しい。勝って浩之が笑う方が、綾香も嬉しいのだ。
腹は立つが、嬉しい。自分の意見を聞いていればまけていたかもしれないのだから、聞かないのが正しかったと思うのは、やはり癪に触るのだが、それでも、結果勝てたのだからいいかと思うふしもないでもない。
よって、珍しく綾香は自分の行動をどちらに偏らせるか決めあぐねていた。
「で、でも、センパイ、あの技って、凄いですね」
何を考えているかは置いておいて、微妙な表情の綾香を助けるように、葵が違う話題を振った。別に綾香は困ってはいなかったのだが、葵のその心使いに感謝して、その話をすることにした。どちらの態度を取るかなど、話していれば、そのうちに決まるだろうと思ったところもある。
「とりあえず、浩之。肩出して」
それよりも何よりも、浩之の鎖骨のことを失念していたことに気が付いて、綾香は、葵の持っていた救急箱をひったくった。試合の興奮でそれを失念していたというのはあまりにもあまりな話だが、葵にまかせておけば、もっと酷いことにもなりかねない。ひったくっても綾香が治療をするべきなのだ。
「おいおい、こんな明るいうちから……いや、まじで悪かった、悪かったから、その拳は下げてくれ。ほら、俺一応怪我人だし」
このまま殴って気絶させて、救急車で病院に運んだ方がいいかもしれない。綾香は、半ば本気でそんなことを考えていた。
上を脱いだ浩之の肩に、綾香は手を当てた。肩はかなり熱を持っていた。それはそうだ、ひびが入ったのだから、まわりの筋肉が炎症を起こしている可能性は高い。
「……とりあえず、折れてはないみたいね。よかったわね、生まれつき頑丈で」
「いや、まったくだ」
綾香の言葉には、少し棘があったが、浩之はそれを甘んじた。綾香の苦悩を、端でも理解していることもあるが、何よりも綾香の握りしめた拳が気になったのだろう。
「ほんとはこのまま病院直行がいいと思うんだけど、次の試合、見ていくんでしょ?」
「まあな。葵ちゃんの試合も残っているしな」
救急箱のものを使って、応急的に浩之の肩を固定する。医者も顔負けの手際の良さだが、いかに綾香が天才でも、医者にかかった方がいいに決まっているのだ。
ひびが入っていると言っても、思ったよりも酷くない。綾香は、浩之が残るのを許すことにした。浩之も、葵の試合もそうだが、次の試合のことも気になるだろうと思ったからだ。
自分が負けた相手だ、気にならないわけがないだろう。
「寺町のときにも、使えばよかったのに」
修治に習った特殊な技の数々を、浩之はこの試合になって、ほとんど初めて使っている。寺町戦では、そんな技を使った様子はなかったのにだ。
「いや、できると思わなかったしな。それに、今回だって、勝手に身体が動いただけなんだしな」
浩之自身には自覚はないが、寺町戦で、浩之のレベルアップがあったからこそ、今のように技を使えるのだ。でなければ、実現不可能な技ばかりだ。
ある一定以上の実力を必要とする技というのは、おかしなものにも感じるが、事実、そういうこともある。
というより、そもそも、決めた投げた相手を蹴るなどという非常識な技は、実力云々にかかわらず、使えない気もする。
「最後の技は、たまたまやりやすい格好になっただけだしな」
寺町相手では、そういう格好にはならなかっただろう。だから、試してみることさえできなかった。
「それにしたって、凄いと私は思いますよ」
葵は素直に浩之をほめる。浩之も、それは自覚している。凄すぎて、もう一度再現しろと言われても、正直できる気がしない、そんな技だったのだ。
状況がはまったのも含めて、運の要素の強すぎる技だった。決まれば、最初に受けた英輔は絶対にやられるほどの無茶な強さも、安定して使えないのでは、役にたたない。
練習、するしかないよな。
負けたのも、勝ったのも両方合わせて、今日の経験は、浩之にそれを再確認させた。もっともっと強くなりたいと思わせるだけの経験を、浩之はしたのだ。
綾香が手当てをしている右肩を見て、これが少しでも早く治ることをすでに願っていた。
ならば、さっさと医者に行けという話もあるのだが。
次の試合は、それを差し引いても、見逃せない試合なのだ。見逃せるはずがない。自分を破った相手の試合なのだから。
続く