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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(183)

 

 ザリッ、と寺町の素足が、マットの上を強くこする音が響いた。それが響くほどに、体育館はしんと静まりかえっていたのだ。

 対峙する桃矢の表情も、いつもよりも険しくなっている。

 ただ、打つ。それを宣言しただけでも、寺町の与えるプレッシャーは、桃矢の精神を削るだけでなく、試合会場全てを飲み込んでいた。

 寺町の天然の部分であるが、それも、あくまで、打ち下ろしの正拳の威力があってこそだ。それを見た以上、どんな人間でも、それに期待や恐怖を覚えるのは仕方のない話だ。

 いかに打ち下ろしの正拳が強いとは言え、ただ正面から打ち込んだのでは、捌かれるのがおちだ。それを、寺町は、相手を言葉で幻惑して、自分の不利を消している。

 打つ、とは言ったが、それが打ち下ろしの正拳だ、とははっきり言っていない。言うだけ言って、違う攻撃というのを、相手は選択肢として捨てきれないはずだ。

 対峙していない浩之にはわかる。確実に、打ち下ろしの正拳が来ることを。だから、それだけ警戒していればいいのだ。ここでさばければ、試合は大きく寺町からこちらに傾くはずなのだ。

 だが、対峙している桃矢には、打ち下ろしの正拳以外はない、という決断はできない。桃矢だけでない、浩之だって、対峙していれば、それを決断できないだろう。性格上、寺町が必ずここで打ち下ろしの正拳を打ってくるとわかっていても、それでも信じ切れない。

 最後の最後、せっぱつまった状況ならば、その決断もできよう。しかし、余裕がある以上、断定するなどという危険なことはできない。余裕が、それだけの考えを呼び起こしてしまう。一度起きれば、それは寝ることなく、頭に居座り続けるのだ。

 打ち下ろしの正拳のみ、とわかっていても捌き切るのは難しいのに、それに邪念が入ったままでどうこうできるわけがない。

 そういう精神戦を、すでに寺町はしかけているのだ。だが、それがわざとではないというのだから、寺町の天然、いや、才能にも驚かされる。まさにこの男、戦うために生まれてきたようなものだ。

 マットの上を素足がこすったのは、それだけ力が入っているということだ。一気に間合いをつめるつもりなのだろう。

 桃矢が両腕を上に構えたまま、しかし、半身の身体を、完全に真半身にして、さらに重心を後ろに持って行く。打ち下ろしの正拳は、一直線なので、こうしておけば、狙う場所はほとんどしぼれる。もちろん、キックを使ってこられた場合には困るのだが、しかし、それも後ろに逃げればいいだけのことだ。フック系の、横からの打撃ならば、リーチが短いので予測よりも近づいてきたら反応すればいい。

 何より、組み技を警戒する必要がないので、片脚を前に出すのにまったくの抵抗がないのが、この構えを桃矢に取らせていた。

 この場面で、桃矢は迷いながらも、少しでも寺町の取れる選択肢を削ったのだ。そうやって、なるべく自分の読み通りに寺町が動くしかないように誘導しているのだ。

 逃げ腰、と言われなくもない構えだ。実際、桃矢は反撃を考えずに、とりあえずその一撃を封じることを考えている。

 しかし、浩之はそれを消極的とは思わなかった。むしろ、桃矢の目は、寺町を正当に評価しているとさえ思った。

 相手が何をしてくるのか読めるという状況は、普通ならまぎれもない最高のチャンスだ。そこでカウンターを狙わない方がどうかしている。

 だが、正直、寺町はつけいる隙のない相手ではない。天然で緻密な作戦、天然なのだから作戦とは言わないのかもしれないが、を実行してくる寺町だが、性格のせいか、かなり大雑把なところがある。

 桃矢の実力なら、チャンスは、この一回ではない。ならば、相手の得意技を、一回目でどうこうする必要もない。相手の技のタイミングに慣れてからの方が、よほど安全に反撃できるだろう。

 精神的にも気圧されているときに、わざわざ危険に手を突っ込む意味などない。冷静に考えれば、取る行動は間違っていない。

 まあ、横の彩花が面白くなさそうにしているのは、いたしかたない話ではあるが。

 むしろ、浩之は桃矢に違和感のようなものを感じていた。

 もちろん、実力と、精神が合っていないというのは、すでにわかっているのだが。

 鬼の拳にこだわるというのは、桃矢の意地だ。意地を通して、不利になるのは、まあ当然の話なのだが、しかし、桃矢は基本的にそれ以外は、かなり気を使って有利な方向へ持っていこうとしている。

 選択肢は、鬼の拳にこだわる、という以外は、まず正しい方を選んでいるのだ。

 感情的になって意地をはるのはわかるのだが、そのわりに、冷静すぎる部分があり、浩之にはそのギャップがどうも違和感を感じさせる。

 これも心と、技体の不一致から来るものなのだろうか?

 桃矢本人に聞くわけにもいくまいし、そもそも本人とてその自覚があるのかわからないし、あったらあったで答えてくれるとは到底思えないのだから、その疑問は答えのないまま、感じるにとどまった。

 鬼の拳のまま、できる限りの対策を練った桃矢に対して、寺町は、いつも通りの構えで、身体を沈める。

 ジッ!

 焼き切れるのでは、と思えるほどの摩擦音と共に、寺町はマットを蹴った。

 それは、前進のための前進ではない。自分を武器にするための前進。

 その足から脚、脚から腰、腰から肩、肩からひじ、ひじから拳へと、天を突き上げるように構えたその拳へ、力が送り込まれる。

 目視できるのでは、と思えるほどに、その動きは大きく、そして強かった。

 その拳が、一直線に、桃矢の顔面にめがけて打ち下ろされた。

 ズバンッ!

 同時に、桃矢の両腕が動いていた。その激突音は短く強い。

 桃矢の身体が、後ろに大きく飛ぶ。しかし、バランスは崩していなかったのだろう、そのままマットの上に降りると、その勢いを使って距離を取った。

 身長差も何のその、寺町の打ち下ろしの正拳突きは、桃矢の顔面にむかって打ち下ろされていた。それを、桃矢は前に出ていた鬼の拳の構えのまま、腕で受けたのだ。

 そのままでは、ただその腕をはじかれて終わり。ガードでさえ打ち抜く寺町のそれだ。その程度では、気休めにさえならない。

 だから、桃矢は右の拳を、自分の左腕に叩き付けたのだ。

 桃矢の腕を挟んで、二つの拳がぶつかりあったのだ。拳を拳で受け止めるのは、あまりにも無謀だ。当てるにも的が小さいし、何より、拳の方が無事では済むまい。

 桃矢は、腕を一本挟むことによって、その不利を無くし、打撃の威力で、寺町の打ち下ろしの正拳を無効化しようとしたのだ。

 それは、半分は成功していた。ガード、というより、桃矢の打撃を、寺町は粉砕できなかった。だから、打ち抜けずに、桃矢が後ろに飛ぶだけで威力が殺されたのだ。

 しかし、桃矢は左腕を押さえていた。さすがに、二つの打撃を挟んだ威力は、腕を無事では済まさなかったのだろう。

 結果から言えば、そう大きなこと、KOなどだが、も起こらなかったので、観客の反応はいまいちではあったが、しかし、これはむしろ試合を決める、重要な攻防だ、浩之はそう思った。

 一つは、桃矢の鬼の拳と、寺町の打ち下ろしの正拳では、寺町の方が、威力に分があるということ。

 もう一つは、これは考えるのも恐ろしいのだが、桃矢の実力を持ってしても、避けることができずに、苦肉の策を取らせた、寺町の打ち下ろしの正拳は、浩之とやったときよりも、スピードがあがっているのでは、ということだ。

 その二つが、本当に事実なら、それは、試合を決める。

 

続く

 

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