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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(186)

 

「待てっ!」

 睨んでいたのは、たかが五秒ほどだった。しかし、その時間が、寺町にこのラウンドを乗り切らせた。

 桃矢にとってみれば、口惜しいことこの上ない結果だ。せっかく、一撃を入れたというのに、それを生かし切れることなく、一ラウンドを乗り切られてしまったのだ。

 寺町は、桃矢の素晴らしいとも言える攻撃を受けながらも、しかし、何故か生き残っている。それは、寺町の強さと、天然なのか策なのかわからないが、的確な読みがあるからだ。

 審判が一分の休憩を指示すると、寺町は少しフラフラしながらも、軽い足でセコンド、中谷と坂下のことだが、に戻ってくる。

 そして、開口一発。

「いやー、思ったよりは楽しめているかな」

 と言いながら、はっはっは、と嬉しそうに大きく笑った。

 楽しめている、というのは、つまり苦戦しているということなのだが、しかし、寺町には当然、前言を撤回する気恥ずかしさなどまったくない。

 苦戦しないとは、確かに寺町は言っていないのだが、だからと言って、相手をなめていて、そして追いつめられていたのでは、話にならない、と坂下も思うのだが……

「そうね、思ったよりも、やるね」

「おお、坂下さんもそう思いますか。いや、やはり実力はさすがですな。やられるとは思っていませんでしたが、けっこう危なかったですよ」

 しかし、寺町は当然まったく悪びれた様子はない。中谷が、それに苦笑しながら注意する。

「相手をなめすぎですよ。北条桃矢選手が弱いわけないじゃないですか」

「いや、そんなことないね」

 だが、中谷の注意に反論したのは、寺町ではなく、坂下だった。

「寺町は、なめてなんかなかった、そうだろう?」

「はい、もちろん、全力でやりましたよ」

 何度も、理にかなっていない行動はあった。しかし、それを含めての寺町の強さだ。ただただ理を追求しただけでは、この男はできない。そこをさらに一つ超えたところに、この格闘バカの強さがあるのだ。

「だから、思ったよりやると言っているですよ。いや、なかなか気合いの入った拳でしたよ」

 はっはっはっは、と休憩中なのにまったく休むとかそういうことを考えていないような寺町の笑い声が響く。

 というか、試合の休憩中に大声で笑うなどという不謹慎というか大胆というかくだけすぎているというか、とにかく、色々間違っているだろうと見ていた人達は思ったろう。

 しかし、寺町のテンションは、少しだけだが、ちゃんと上がっているのだ。ここで休憩を入れる意味など、大してない。

 ダメージなど、放っておくしかないのだ。そして、寺町は肉体の回復力も、精神の回復力も非常に高い。

 息は多少切れてはいるが、それが動きに支障あるものではない。ダメージさえ、今は寺町のテンションを上げる効果しかないように見える。

「だが、まあ、こんなものかな」

 そして、寺町のテンションは、上がったものの、突き抜けはしなかった。

 一瞬、ゾクッとするような表情を、寺町は作る。それは獲物を狙う獣の目にも見えたし、小うるさい蚊をたたきつぶすような表情にも見えた。

 にこやかな顔から、その顔にかわった瞬間のプレッシャーは、近くにいた坂下以外の人間を、引かせるのには十分だった。

 坂下は、ちょっと肩をすくめただけだった。

「期待は超えている。だけど、それだけですよ」

 中谷さえ距離を取ったので、寺町は坂下に話を続ける。もっとも、それは独り言に近いもので、坂下の返事を期待したものではなかったようだが。

「いい拳だ。ちゃんと訓練して、血のにじむような努力をして、そして、想って、作ってきた、強い拳」

 どこか、今の寺町は感動しているようにも見える。もっとも、この男は感動すれば、大声を出して喜ぶ方なのだ。今のような、少し寂しいと思わせる声は出さない。

「しかし、あの拳では、俺は倒せない。あの拳には、俺の拳は負けない。負けるわけがない」

 事実、勝利宣言だった。聞かれれば、桃矢は激怒するだろうし、関係ない者でも、今までの結果を見ていれば、まゆをひそめるかもしれない。追いつめられていたのは、寺町なのだ。

「こんな試合、早く終わらせるつもりですよ」

 それだけ言うと、寺町の顔は、いつもの顔に戻った。さっきまでの表情が嘘のように、軽やかに笑っている。

 それは、格闘バカの中に潜む、格闘の鬼の姿だったのだろうか?

「確か、鬼の拳でしたか? さすが、北条鬼一さんの拳は、凄いと今でも思いますが、しかし、桃矢選手の拳は、それほどではないでしょうしね」

 鬼の拳に劣るのは、寺町も同じだ。いわば、伝説の一人である北条鬼一とまともにやり合えるのは、希望も含めて、綾香ぐらいしかいまい。

「でも、あんたも鬼の拳を目標にして来たんだろ?」

 こだわるこだわらないの差はあれど、この一戦は、どちらがより鬼の拳に近いのか、それをハッキリさせる試合でもあるのだ。

 坂下の言葉に、寺町は、しかし他人事のように首をかしげた。

「目指してた、というわけではないですよ。ただ、強い拳だったから、俺の心に残っただけで。俺の拳は、何と言っても、俺の拳ですから」

 それが、寺町と桃矢の圧倒的な差なのだ。坂下にはわかる。わかり過ぎる。だから、坂下は結局色々な誘惑を振り切って今のスタイルに行き着いた。

 ああ、確かに強い。伝説の鬼の拳が強いなど、空手家の坂下にとってみれば、当たり前の話だ。それは信仰に近い。

 しかし、坂下は、もちろん鬼の拳を知っていたが、それを目指したりはしなかった。

 葵に倒されても、崩拳を習ったりしなかったし、綾香に何度やられても、綾香の戦い方を真似たことは、何度かあったが、すぐに今のスタイルに戻ってきた。

 それは、あきらめたのではない。

 今の自分が、自分らしいからだ。それが、楽しいからだ。それが、自分の武器だからだ。

 寺町が怒っているようにさえ、坂下には見えた。その怒りが、いつもは見られない寺町の一面を見させたのだ。

 桃矢の、その選択に、寺町は、本当に怒っているのだ。坂下には、それがわかる。

 格闘バカにとっては、例え負けることになっても、それを捨てるべきではないのだ。

 それを、「自己」と言う。

 

続く

 

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