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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(190)

 

 桃矢は、自分の鬼の拳が、この格闘バカに負けてしまったことを理解した。

 と同時に、胸の中に、表現できないものが生まれる。それは、桃矢が初めて感じるものだった。

 ドカッ!

 マットに倒れたまま、それでも感情にまかせて、桃矢はマットの上に拳をたたき込んでいた。同時に、消せなかった感情を、口から外にはき出す。

「ちくしょうっ!」

 その叫びに、観客達は驚きを隠せなかった。寺町の打ち下ろしの正拳が、ガードをぶち抜いて、直撃したにも関わらず、桃矢が声をあげることができたことにだ。

 しかし、その叫びに一番驚いているのは、桃矢本人だった。

 腕に力を込めると、ぐぐっと身体が持ち上がる。

 寺町の打ち下ろしの正拳を、二発喰らってさえ立ち上がろうとする自分に、桃矢自身が一番驚いていた。

 そして、その驚きを塗り替えるほど、胸の中で生まれた感情は激しかった。

「ちくしょうっ!!」

 ドカッ!

 もう一度、膝をついたまま、マットに拳をたたき込む。

 それでも、まだ胸の中のそれは収まらない。おそらく、何度マットを、それこそ拳がいかれるぐらい叩いたとしても、それは収まりそうになかった。

 自分の近くで、審判がカウントを始めているのを、目で追って確認すると同時に、桃矢は感情のまま立ち上がっていた。

 たった七カウント、寺町の打ち下ろしの正拳を受けてそれならば、たったと言って正しいだろう、で立ち上がった桃矢に、歓声が沸き起こる。

 審判が何かを言ってくるが、もう桃矢の耳には届いていなかった。耳に残っているのは、自分の叫びだけだ。

 桃矢の胸を焦がすのは、悔しさ。

 言葉にすれば、簡単な感情だった。

 しかし、桃矢にとってみれば、初めて感じる感情と言っていいほどの激しさで胸が焼かれる。これが本当の悔しさだとすれば、一試合目で修治相手に見せた失態で感じた悔しさなど、まだまだ軽いものだったというのがわかる。

「どけよ、邪魔だ」

 だから、その感情を少しでもはき出すように、桃矢は審判を押しのけた。

 目の前で、何故かとても嬉しそうに笑っている寺町の顔を、見れば見るほど、その感情は大きくなる一方だった。

 このバカで発散しない限り、この感情は消せないことを、桃矢は本能で理解した。それでもすぐに向かっていかないのだは、ダメージよりも何よりも、頭の中身が整理つかないからだ。

 すぐにでもこの男に殴りかかりたい。しかし、どうしてそんな無謀なことをしようとしているのか、理解できない。無謀とわかっている以上、無茶な攻めはない。

 感情が先行しても、桃矢はまだ格闘家として冷静に対処しようとしていた。それは浅はかな作戦などではない。すでに、桃矢の中にしみついている、言わば本能のようでもあった。

 ただただ悔しいのだ。この男が、自分の感情を逆立てる。

 しかし、まだ前に行くな、襲いかかるな。今、自分の置かれている状況をちゃんと理解して攻めろ。

 二つの衝動が、桃矢の中で綱引きをしている。

 そして、その桃矢の中で起こった、葛藤という綱引きは、驚くことに、あっさりと、感情が負けた。

 何をそんなに悔しがっているのか、それを理解するまでは、まだ攻めない。桃矢はそう決めたのだ。

 どうせ、理由などわかっているのだ。

 自分の鬼の拳が負けたことが、これほど悔しいとは、今まで思ってもみなかったのだが。

 しかし、考えてみれば、それを経験するのは、当の北条鬼一相手以外では、まだ一度もなかったのだ。それは、修治には完全に試合内容で負けていたが、しかし、鬼の拳で負けたわけではなかった。

 今まで、最終地点として見ていた、つまり最終地点として邁進してきたはずのそれを、あっさりと覆してくれたこの男には、怒りを通り越して、むしろ敬意さえ感じる。

 そんなに、楽しそうに拳を振るう姿を見せられた以上、桃矢には出る幕がないのだ。

 俺は、ここまで楽しそうに戦ったことがあっただろうか? 拳を振るって来たことがあっただろうか?

 そして、それでもなお、この男は、その拳に、鬼の拳を模倣したはずのそれに、こだわらなかった。自信の表われとしてはあったとしても、それにすがるようなことはなかった。

 では、自分の自信の表れは? こだわってもいいが、すがるのではない、それは?

 そして、格闘バカの姿は、桃矢に、ある一つのことを、思い出させた。

 何故、自分が鬼の拳にこだわりながらも、空手の世界だけで止まっていなかったのかを。

 鬼の拳を模倣しながらも、組み技も含めて、総合的に格闘技を勉強していったのかを。

 自分が、最初から打撃のみの世界で全てを終わらせなかったのかを。

 感情が、晴れた。胸を焦がしていた悔しさは、それを思い出したことで、綺麗さっぱりとなくなっていた。

 と同時に、今まで感情の噴気のせいでなりをひそめていた痛みとか熱とかが、一気に桃矢に襲いかかった。

 だが、もう倒れる心配はない。桃矢は、久しぶりに思い出してしまったのだから。

 寺町が笑っている。さっきまでは、むしろ顔をしかめていたようにさえ見えたというのに、酷く現金なものだ、と桃矢は、頭痛の襲う頭で考えていた。

 身体はまだ動きそうにもなかったが、桃矢はそれでも構えを取った。

 力なく垂れ下がる両腕を、上に構えた。

 鬼の拳、北条鬼一が、伝説を作った、そのものの構え。

 だが、これは所詮模倣でしかない。そもそも、北条鬼一だからこその拳なのだ。桃矢がそれを真似たところで、そこにたどり着き、そして追い越すことなどできない。

 何故なら、常々桃矢は思っていたのだ。

 何故こんな非効率的な構えを取るのだ、と。

 父の使う、世界最高の打撃だと信じていたし、今でも信じているが、しかし、その効率の悪さは、それとこれとはまったく別の話だった。

 桃矢は、もう十数年頭の中の端にはあっても、決して考えることのなかった一つの結論を、導きだし、納得した。

 この構えは、自分には合わない、と。

 だからこそ、今、この構えを取った。

 そして、これは今日だけの誤解だったのだが、その誤解もちゃんと解いておくことにした。

 目の前で、片角のみを構える、格闘バカ。

 しかし、それは間違っていたのだ。自分の誤解だった。だからこそ、桃矢は感謝せずにはおれなかった。自分の間違いに気付かせてくれた、この格闘バカに。

 寺町のそれは、鬼の拳の模倣ではないのだ。

 だからこそ、寺町はその打撃に、こだわる必要などない。最初から、自分の打撃なのだ。自分のものである以上、必要以上にこだわって、自信をアピールする必要など、どこにもないのだ。

 だから、桃矢は、鬼の拳を模倣するのを、やめた。

 ここからは、生まれて初めての、桃矢自身の戦い、それを、身体に刻みつけるつもりだった。

 

続く

 

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