桃矢は、自分の鬼の拳が、この格闘バカに負けてしまったことを理解した。
と同時に、胸の中に、表現できないものが生まれる。それは、桃矢が初めて感じるものだった。
ドカッ!
マットに倒れたまま、それでも感情にまかせて、桃矢はマットの上に拳をたたき込んでいた。同時に、消せなかった感情を、口から外にはき出す。
「ちくしょうっ!」
その叫びに、観客達は驚きを隠せなかった。寺町の打ち下ろしの正拳が、ガードをぶち抜いて、直撃したにも関わらず、桃矢が声をあげることができたことにだ。
しかし、その叫びに一番驚いているのは、桃矢本人だった。
腕に力を込めると、ぐぐっと身体が持ち上がる。
寺町の打ち下ろしの正拳を、二発喰らってさえ立ち上がろうとする自分に、桃矢自身が一番驚いていた。
そして、その驚きを塗り替えるほど、胸の中で生まれた感情は激しかった。
「ちくしょうっ!!」
ドカッ!
もう一度、膝をついたまま、マットに拳をたたき込む。
それでも、まだ胸の中のそれは収まらない。おそらく、何度マットを、それこそ拳がいかれるぐらい叩いたとしても、それは収まりそうになかった。
自分の近くで、審判がカウントを始めているのを、目で追って確認すると同時に、桃矢は感情のまま立ち上がっていた。
たった七カウント、寺町の打ち下ろしの正拳を受けてそれならば、たったと言って正しいだろう、で立ち上がった桃矢に、歓声が沸き起こる。
審判が何かを言ってくるが、もう桃矢の耳には届いていなかった。耳に残っているのは、自分の叫びだけだ。
桃矢の胸を焦がすのは、悔しさ。
言葉にすれば、簡単な感情だった。
しかし、桃矢にとってみれば、初めて感じる感情と言っていいほどの激しさで胸が焼かれる。これが本当の悔しさだとすれば、一試合目で修治相手に見せた失態で感じた悔しさなど、まだまだ軽いものだったというのがわかる。
「どけよ、邪魔だ」
だから、その感情を少しでもはき出すように、桃矢は審判を押しのけた。
目の前で、何故かとても嬉しそうに笑っている寺町の顔を、見れば見るほど、その感情は大きくなる一方だった。
このバカで発散しない限り、この感情は消せないことを、桃矢は本能で理解した。それでもすぐに向かっていかないのだは、ダメージよりも何よりも、頭の中身が整理つかないからだ。
すぐにでもこの男に殴りかかりたい。しかし、どうしてそんな無謀なことをしようとしているのか、理解できない。無謀とわかっている以上、無茶な攻めはない。
感情が先行しても、桃矢はまだ格闘家として冷静に対処しようとしていた。それは浅はかな作戦などではない。すでに、桃矢の中にしみついている、言わば本能のようでもあった。
ただただ悔しいのだ。この男が、自分の感情を逆立てる。
しかし、まだ前に行くな、襲いかかるな。今、自分の置かれている状況をちゃんと理解して攻めろ。
二つの衝動が、桃矢の中で綱引きをしている。
そして、その桃矢の中で起こった、葛藤という綱引きは、驚くことに、あっさりと、感情が負けた。
何をそんなに悔しがっているのか、それを理解するまでは、まだ攻めない。桃矢はそう決めたのだ。
どうせ、理由などわかっているのだ。
自分の鬼の拳が負けたことが、これほど悔しいとは、今まで思ってもみなかったのだが。
しかし、考えてみれば、それを経験するのは、当の北条鬼一相手以外では、まだ一度もなかったのだ。それは、修治には完全に試合内容で負けていたが、しかし、鬼の拳で負けたわけではなかった。
今まで、最終地点として見ていた、つまり最終地点として邁進してきたはずのそれを、あっさりと覆してくれたこの男には、怒りを通り越して、むしろ敬意さえ感じる。
そんなに、楽しそうに拳を振るう姿を見せられた以上、桃矢には出る幕がないのだ。
俺は、ここまで楽しそうに戦ったことがあっただろうか? 拳を振るって来たことがあっただろうか?
そして、それでもなお、この男は、その拳に、鬼の拳を模倣したはずのそれに、こだわらなかった。自信の表われとしてはあったとしても、それにすがるようなことはなかった。
では、自分の自信の表れは? こだわってもいいが、すがるのではない、それは?
そして、格闘バカの姿は、桃矢に、ある一つのことを、思い出させた。
何故、自分が鬼の拳にこだわりながらも、空手の世界だけで止まっていなかったのかを。
鬼の拳を模倣しながらも、組み技も含めて、総合的に格闘技を勉強していったのかを。
自分が、最初から打撃のみの世界で全てを終わらせなかったのかを。
感情が、晴れた。胸を焦がしていた悔しさは、それを思い出したことで、綺麗さっぱりとなくなっていた。
と同時に、今まで感情の噴気のせいでなりをひそめていた痛みとか熱とかが、一気に桃矢に襲いかかった。
だが、もう倒れる心配はない。桃矢は、久しぶりに思い出してしまったのだから。
寺町が笑っている。さっきまでは、むしろ顔をしかめていたようにさえ見えたというのに、酷く現金なものだ、と桃矢は、頭痛の襲う頭で考えていた。
身体はまだ動きそうにもなかったが、桃矢はそれでも構えを取った。
力なく垂れ下がる両腕を、上に構えた。
鬼の拳、北条鬼一が、伝説を作った、そのものの構え。
だが、これは所詮模倣でしかない。そもそも、北条鬼一だからこその拳なのだ。桃矢がそれを真似たところで、そこにたどり着き、そして追い越すことなどできない。
何故なら、常々桃矢は思っていたのだ。
何故こんな非効率的な構えを取るのだ、と。
父の使う、世界最高の打撃だと信じていたし、今でも信じているが、しかし、その効率の悪さは、それとこれとはまったく別の話だった。
桃矢は、もう十数年頭の中の端にはあっても、決して考えることのなかった一つの結論を、導きだし、納得した。
この構えは、自分には合わない、と。
だからこそ、今、この構えを取った。
そして、これは今日だけの誤解だったのだが、その誤解もちゃんと解いておくことにした。
目の前で、片角のみを構える、格闘バカ。
しかし、それは間違っていたのだ。自分の誤解だった。だからこそ、桃矢は感謝せずにはおれなかった。自分の間違いに気付かせてくれた、この格闘バカに。
寺町のそれは、鬼の拳の模倣ではないのだ。
だからこそ、寺町はその打撃に、こだわる必要などない。最初から、自分の打撃なのだ。自分のものである以上、必要以上にこだわって、自信をアピールする必要など、どこにもないのだ。
だから、桃矢は、鬼の拳を模倣するのを、やめた。
ここからは、生まれて初めての、桃矢自身の戦い、それを、身体に刻みつけるつもりだった。
続く