寺町の打ち下ろしの正拳を受けてなお、桃矢は蘇ったように誰の目にも見えた。
雰囲気も、さっきまでとは大違いだ。今までは、技術的には強いながら、どこか足りないものがあるように見えたのだが、それが埋められている感じがする。
ここまで来て、逆転か、という雰囲気も出て来ており、やる方にとってはどうかわからないが、見る方にとっては楽しい試合だろう。
しかし、浩之には、とてもそうは思えなかった。
桃矢が、すでに鬼の拳にこだわらなくなったのは見てわかる。それは、間違いなく技術的に寺町の上を行く桃矢にとってプラスだろうが、桃矢の動き、作戦を見て、浩之には、桃矢の頭が正常に動いているとは思えなかった。
「あれは、無駄じゃないのか?」
もっとも、今の桃矢には読めない部分もあるので、綾香や葵に訊ねてみる。
「私は、とりあえず間違っていないと思いますけど……」
葵も、少し自信なさげに桃矢の動きを評価した。
「打ち下ろしの正拳が恐いんですから、下から近づいて、近距離戦に持っていくのは正しいと思います。ローキックも、相手の動きを止めるのには有効ですし」
「じゃあ、ボディーへの攻撃は?」
浩之の疑問なのはその一点だ。
「それは……」
葵も、それの答えを持っていない。
浩之でも気付いたのだ、葵もそれには気付いていた。脚への攻撃もそうだが、さっきから、桃矢は寺町の頭部を狙わずに、胴体に固執している。
確かに、腕が上にある寺町の構えは、頭を狙うのは他を狙うよりも狙いにくいのだが、しかし、だからと言って、ローキックはともかく、寺町のボディーを狙うのは、あまり意味のある行為とは思えない。
胴体を狙うのは、そこが上脇腹や、みぞおちならともかく、他の部位に当てると、頑丈な骨や筋肉で、ダメージが当たり難い。
それでも、時間が経てば、相手の内臓にダメージが入り、スタミナを削っていくことができるので、ボクシングの試合などでは、けっこう使用頻度は高い。何より、頭は逃がせても、身体の中心にある胴体への攻撃を避けるというのは、酷く難しいので、長期戦になると思えば、狙っておくに越したことはない。
だが、それはあくまでも長期戦の話だ。ボディーへのダメージは、すぐには効いて来ない。しかも、寺町は鍛えるにまかせて筋肉を鍛えているだろうから、それが鎧となり、余計にダメージは寺町に届かない。
ダメージを受けて、全開時よりもパワーもスピードも落ちているだろう桃矢は、短期決戦の一撃必殺を狙うしかないはずなのだ。
時間が経てば、それは桃矢のダメージも抜けては来るだろう。しかし、ダメージが抜けるのを待っていられるほど甘い状況でもなかろう。
以上のことにより、浩之は、実は桃矢は冷静そうに見えて、すでに頭がまわっていないのではないかと考えたのだ。頭部に強い衝撃を受ければ、思考力が落ちるのは当たり前、桃矢の状況は、何も珍しいことではない。
しかし、綾香は、さっきまでの殺気立った顔を、急に改めて、笑った。
「あら、それは違うわよ」
少し得意そうにフフンと鼻をならしながら、二人の意見を否定した。
綾香には、桃矢の作戦は見えていた。さすがに、まだ浩之も葵も、気付けるレベルではないということだろうが、当の戦っている本人である桃矢は気付いたということだ。葵だって、相手と戦ってみれば、それに気付いただろう。
「寺町選手がローキックに弱いのは、見ていてもわかるんですが、ボディーは、効いたそぶりすら見せていませんよ」
「やせ我慢してるのよ」
「はあ……」
葵は納得できないという表情をした。やせ我慢と、実際に効いていないことの区別ぐらい、自分にもできると思っているから、綾香の言葉でも信じられないのだ。
「いや、やせ我慢って言うけどな。あいつの筋肉の固さは、俺が自分の身で嫌ってほど体験したが、ボディーはそりゃ鋼鉄みたいなもんだったぜ」
こちらは、実際に寺町と対峙した浩之からの弁。
何度も寺町を殴り、蹴ったからこそわかる。何度も執拗に狙えば、効いては来るだろうが、それでは三ラウンドでは足りない。浩之の経験はそう物語っていた。
予想を超えて桃矢の打撃が強いならともかく、桃矢は動きの邪魔になるほど力を込めて打撃を放っていない。それでも浩之よりも上だろうが、寺町の腹筋を打ち抜くほどの威力があるか、と言われると、疑問に思うところだ。
二人の言葉で、余計に嬉しそうに笑った綾香は、試合場を親指で指さした。
「論より証拠、ほら、寺町の動きが鈍って来たわよ」
執拗に小競り合いを繰り返す桃矢を、寺町は捉え切れていない。桃矢の技術がうまいという部分もあるだろうが、明らかに寺町の動きが鈍ってきている。
「根性だけじゃ、どうにもならない物ってあるのよ」
寺町は、確実にダメージを蓄積させている。桃矢は、ローキックは距離の遠い、相手から反撃できない距離だけで行い、そこから派生する隙をついて、懐に飛び込み、胴にパンチや膝を集中させる。
ローキックは単なるつなぎで、本命が胴体への打撃であるのは、目に見えていた。
そして、不思議と、寺町に組み付こうとはしていなかった。倒せるかどうかはわからないが、つかめるチャンスは十二分にあるはずなのだが、桃矢は、相変わらず、間合いを取っては、また懐に入って打撃を打つ行為を繰り返していた。
その動きも、同じ動きのように見せかけて、強弱、緩急、上下左右と、変幻自在に繰り出すものだから、寺町にもそのタイミングが読めない。そのうちに、寺町の動きが鈍くなっていく。
「何でだ……?」
そこまで、桃矢の打撃が常軌を逸しているというのだろうか?
いや、そんなことはないはずだ。単純な威力だけなら、寺町の方が強いのではとさえ思える。
ボディーは寺町の弱点ではない。それは浩之が身にしみてよくわかっている。そして桃矢の打撃が常識を越えて強いわけでもないだろう。
では、何故今寺町は動きを鈍くしているのか?
可能性は、一つしかなかったので、すぐにたどり着いた。しかし、それも、どうしても説明できないものを含んでいた。
「寺町は、すでに胴体に、致命的なダメージを受けてる?」
「正解。と言っても、実際に戦って、浩之が気付けるか気付けないか程度のダメージだけど、相手が悪かったわね。桃矢にはばれるわ」
「いや、おかしいだろ。そりゃ、桃矢はずっと拳を使ってたが、そんなダメージを出せるほどじゃなかったはずだ。そもそも、寺町の胴体に入ったパンチがあったのかさえ俺には思い出せないぐらいなんだぜ」
それは、一、二発はあったかもしれない。しかし、ことごとく本命ではなかったはずだ。桃矢の鬼の拳のフックは、ほとんど寺町の頭部を狙っていた。
何より、それだけの打撃が決まれば、見ている者が、素人ならまだしも、浩之、浩之が駄目でも、葵なら気付けたはずだ。
「そんな打撃、一発も入ってないぜ」
「もう、何言ってるのよ。特大の、寺町は受けてるじゃない」
何を言っているんだか、という顔のわりには、綾香は、珍しく物凄く嬉しそうだった。今、この場で綾香がこんなに嬉しがる理由など、浩之は思い当たらない。
殺気ならわかる。心躍る試合を見て、血が沸き立っているというのならわかる。しかし、ただただ、少し小悪魔じみているとは言え、無邪気に嬉しそうにする綾香が、ここにいる理由を思いつけない。
「わかんない?」
「わかるかよ、だから聞いてるんだろ。教えろよ」
「もう、しょうがないわねえ」
綾香は、十分にもったいぶろうとして、事実少しだけもったいぶったのだが、結局、にじみ出る嬉しさに負けて、口を割った。
「浩之のよ」
「へ?」
浩之は、自分でも間抜けな顔をしているなあと思いながらも、まぬけな顔をして、ついでに間抜けな声をあげた。
「浩之の最後の打撃が、回復できなかったのよ」
そう言う綾香の嬉しそうな顔は、女神かと思うほどに、輝いていた。
続く