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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(194)

 

 身体よ壊れろ、とばかりに、桃矢はスピードを上げ、寺町のまわりを回り出す。

 立ち上がった桃矢は、審判の合図があるやいなや、さっきまでの前後の動きから、左右の動きに変えた。

 さっきまで桃矢は、寺町の下に潜り込むようにして、寺町の打ち下ろしの正拳の射程外の下を通って、寺町に迫っていたのだが、それを打ち破られて、作戦を変えたのだろう。

 しかし、それなら少しは様子を見るため、そしてさっきのダメージを消すために、少しは動きを遅くすればいいものだが、桃矢の動きは、むしろ速くなっていた。

 倒れたわけではないが、ダメージが蓄積されている寺町も、その動きに合わせて、向きを変える。翻弄する桃矢の動きについていっているのはさすがだが、しかし、それをこちらから出向いて倒すだけの元気はないようだった。やるなら、チャンスを待たねばならない。あの寺町が、そういう作戦を取らねばならないほど、ダメージが大きいのだ。

 浩之の目には、すでに試合はおわっていなければならないように見えた。

 どちらのダメージも、もう立てなくともおかしくないというか、立ち上がって、しかも激しく動いているなどおかしいと思えるラインを、遙かに超えている。

 試合中は、テンションが上がりすぎて、簡単に限界を超えるのは、それは浩之も経験してわかってはいたが、しかし、それでも限界がある。

 通常の限界の、その上。しかし、その上にだって、限界はある。上の方の限界まで、おそらくは、後一撃が限界だろう。

 あと一発。そういう状況なのだ。それをお互いにわかっているのか、両方、出し惜しみをしているようには見えない。もっとも、最初から寺町が出し惜しみをしているとは思ってはいないが。

 寺町の打ち下ろしの正拳の前に、破れた桃矢にしても、それからは冷静に、有利になるように戦っていたように見えたが、とうとう、全力で行くしかなくなったのだろう。寺町のまわりを回る動きは、後何秒も持たないだろう。

 待ちかまえる寺町の方が、少しだけ有利だと、浩之は考えたが、それもあまりあてにならない。すでに、寺町も桃矢も、今の浩之にはたどり着けない場所にいるのだから。

 激しく、しかしなめらかに動く桃矢を、寺町は嬉しそうに笑って、素早く対応している。決して楽な場面ではないのに、寺町には嬉しくて嬉しくてしょうがないのだろう。

 それを鏡で写すように。

 動きは、すでに限界を超えて、心臓が口から飛び出るほど苦しいだろうに、桃矢は笑えていた。今までの、仏頂面だが、しかし、どこか不安定なものとは違う。まわりから見たら危ない人間だが、しかし、こと格闘家としては、これ以上にないぐらい安定した状態。

 安定、というのは違うか。弾けた状態、と言った方が正しい。

 前振りも何もなく、桃矢の身体が横の動きから縦の動きに変化した。

 寺町の右に回り込もうとしながら、前に出たのだ。

 横の動きが、急に縦の動きに変われば、対応できる者はそういないはずの、それほどのスピードだった。

 だが、寺町は慌てなかった。振り向きざまに、その勢いを込めて、少し低い左の回し蹴りを放つ。いかに動きに慣れていなかろうと、左の脚を横にふれば、近づけばどこかに当たる。そして、寺町の蹴りは、それでも桃矢をはじき飛ばすほどの威力があるのだ。

 桃矢は、素早くさらに寺町の右にまわるように動いていた。横、縦、横と動くことで、相手が動きに慣れることを許さない、理にかなった動きだ。

 だが、回し蹴りを避けるために、距離を取ってしまった桃矢には、追撃するには間合いが遠い。もう一度、寺町との距離をつめなければならないのでは、さっきまでの横の動きの意味がない。

 しかし、そんな単純な、と言っても普通はかなりの効果を及ぼすのだが、動きでは、寺町に効く訳がない。テンションもあがった寺町には、そんな小手先の動きは、威力で覆すことができるものがある。

 しかし、それをわかっていないのか、桃矢は下に潜り込むように腰を落として、寺町に向かって飛び込んでいた。

 甘いっ!

 浩之は思わず心の中で叫んでいた。横で翻弄したところで、寺町が、飛び込んでくる獲物を逃すわけがない。さっきの下にまで届く打ち下ろしの正拳は、まぐれなどではない。

 すでに振り向いて、構えを取った寺町は、下に入ってくる桃矢に向かって、垂直に、拳を打ち下ろしていた。

 寺町の、渾身の垂直打ち下ろしの正拳。

 桃矢は、横の動きから縦の動きに変化させることによって、寺町の慣れを殺していたわけでは、なかった。

「せいっ!」

 ズパンッ!

 対象物が空気であるにも関わらず、寺町の拳は、何かを突き抜けるような音を出した。それほどに、全力の拳だった。

 しかし、当たったものは、空気でしかなかった。

 桃矢が狙っていたのは、横や縦ではない。

 ぎりぎりで、桃矢の身体は持ち上がっていた。下に打ち込んでいるのだから、止まって上にあがれば、当たらないのは当然。

 横にしろ、縦にしろ、桃矢は、ほとんど後ろに下がらなかった。それこそ、桃矢が寺町に慣らせることをさせなかった動き。

 マットにしがみつくように、桃矢は前進の力を脚で止めて、寺町の前、打ち下ろしの正拳の射程範囲に、その身体をほとんど無防備にさらした。

 静止、それこそ、桃矢が狙いに狙って、寺町に見せなかった動き。

 寺町の右の拳は下。対する、桃矢の両腕は、寺町の真正面にあった。

 止まった桃矢の身体が、堰を切ったように前に出る。寺町は、とっさに反応しようとしたが、しかし、桃矢の動きの方が速かった。

 包み込むように、桃矢の腕が、寺町の首を捕まえる。そして、深くに潜り込んだ。

 技は、一瞬で完成した。桃矢の、この試合唯一見せる組み技、チョークスリーパーが、完全に寺町の首にまわっていた。

 ガンッ!

 間を置かずに、寺町は後ろに立つ桃矢に向かって、無理な体勢ながら、右拳を打ち込む。

 寺町の拳につぶされ、桃矢の鼻から、鼻血が吹き出す。しかし、それでも桃矢は腕の力を少しも弱めなかった。

 ドカッ!

 二発目の、寺町の拳が、桃矢の無防備な顔面に入る。体勢は悪いとは言え、蓄積されたダメージに、寺町の打撃が何度も増やされれば、立ってはいられないだろう。

 だが、それでも、桃矢はこの腕、放すつもりはなかった。例えここで死んでも、この腕だけは、放すわけにはいかないのだ。

 やっと。

 そう、桃矢は自覚していた。打撃だけでは、自分は寺町に勝てないことを。前の試合で残ったのだろうダメージを狙ったからこそ、ここまで追いつめることができただけで、打撃で戦って、勝てるとは思っていない。

 しかし、自分には、打撃だけでなく、組み技もあることを、桃矢は自覚していた。

 やっと、やっとのこと、自分を見つけたのだ。

 この腕、放すわけにはいかない。やっと掴んだ、自分なのだから。

 ゴカッ!

 さらに、桃矢は殴られる。つんとした痛みと、脳を揺さぶられるダメージが入るが、しかし、今はそれすら、楽しくある。

 だから、桃矢は、笑って宣言した。

「俺の、勝ちだ」

 キュワッ

 さらに強く、桃矢の腕に力が入って、寺町の腕は、四度目の拳を放とうとしたところで、止まった。

 しんっ、と体育館の中が静かになる。

「それまで!」

 審判が、そう叫びながら、桃矢の腕をはがす。と同時に、桃矢というささえを無くした寺町の身体が、どさり、とマットの上に落ちる。

 それ以上の審判の合図を待たずに、寺町の後輩達が寺町に駆け寄る。

「勝者、北条桃矢っ!」

 審判のその宣言と共に、観客の歓声が、一気に最高潮に上がる。

 が、桃矢には、それはすでに聞こえていなかった。数歩、寺町から離れるように後に下がり、そのまま、膝をつくように、前に倒れ込む。

「……ッ!!」

 ビクンッ、と身体が痙攣する。今まで、無理をしていたものが、全てあふれ出してきたのだ。

 立っていることも、すわっていることも、勝ったことを喜ぶこともできずに、勝者は、その場で、のたうちまわることもできず、声にならない悲鳴をあげながら、身体を震わせた。

 それを観客は、まるで祝福するように、歓声をあげる。喜びに身体を震わせているようにでも見えたのだろうか。

 敗者に、何人もかけよってくる。

 勝者は、その場で声もなく叫ぶ。

 それでも、その悲惨な状況を見ても、ただただ浩之は口の中に広がる、苦い物に顔をしかめるのがやっとだった。

 平静でいられる方がどうかしているのだ。

 自分を倒した相手が、負けたのだから。

 

続く

 

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