男子の試合は全て終わり、男子の更衣室には、もう誰も残っていない。
その中で、一人、荒い息を吐きながら、一人の男が横たわっていた。
その姿を見れば、十人中九人は試合に負けて、倒れているように見えたろう。それが証拠に、勝ったのなら、まわりに誰もいないのはおかしい。
しかし、その場に倒れている男、北条桃矢は、地区大会のくせに、いやにレベルの高かったナックルプリンスを、勝ち残った男だった。
単なる予選でしかなかったが、桃矢にとってみれば、今まで経験した中で、一番苦しい戦いだった。
怪我が重なって、去年のエクストリームにこそ出られなかったが、しかし、空手でも、それ以外でも、試合の経験は豊富にある。
公式な試合では、今まで負けたことなどなかった。練習であっても、この一年は、北条鬼一以外に遅れを取ったことなど、数えるぐらいしかない。
しかし、今日は遅れを取りすぎた。結局、優勝したのは桃矢だったが、しかし、そのことについては、素直に喜べるような試合内容ではない。
一試合目では胸を肘で切り裂かれ、準決勝では打撃を使わされ、決勝戦では、こだわっていた鬼の拳を、完膚なきまでに破られた。
そして、勝った今も、試合で受けたダメージのせいで、まともに動くこともできない。だから、ここで倒れて、じっとしているしかなかった。
手当てをしてくれる人間ももちろんいるが、それよりも、一人になりたかった。
勝つには勝ったが、無様な試合ばかりだった。結果こそ出したが、前評判を崩すには、十分な内容だろう。
別に、ちやほやされたいわけではないが、桃矢にだってプライドがある。弱いと思われるのは、許せない。
しかし、結果は結果。やってしまったことは、覆らない。恥ずかしくて、他の人間になど、顔を見られたくない、とさえ思っていた。
だから、一人ここに寝ころんでいるのだが。
しかし、それだけではない。一人になりたかったのは、恥ずかしかったからだけではない。
「く……くくくくっ」
自然にこぼれる笑みを、消せないと思ったからだ。
あんな無様な試合をしてきた人間が、嬉しそうに笑う姿を、他の人間に見せるわけにはいかなかったからだ。
もともと、桃矢は怒り以外の表情を顔に出す男ではない。自分も、そのイメージを大切にしている。つまり、自分のイメージを守るために、こんな汗くさい場所に留まっているのだ。
「くく……はは……」
それでも、あまり大きな声で笑えば、部屋の外で待っている人に声が聞こえてしまう。だから、自然声を押し殺しながら、桃矢は笑った。
楽しくて楽しくて、仕方がないのだ。
満足に身体は動かない。道場の合宿に行ったときでさえ、ここまではならないだろう、と思うほど身体は疲弊し、そして、精神の方も限界だった。
自分の身体のことはよくわかる。今だったら、そこらの半素人にさえ不覚を取るかもしれない。
しかし、楽しかった。楽しすぎた。こんな状態なのに、またすぐに試合をしたい気持ちになってくる。
生まれて、初めて自分で戦った気分がした。それは、我慢できないほど爽快だった。
半分壊れていても、それでも硬い腹筋に拳が突き刺さる感触。拳銃の前に、身をさらせるような恐怖を呼び起こさせる打ち下ろしの正拳。
そして、負けたくないという気持ち。
どれもこれも、今までの桃矢にはなかった経験であり、なかった気持ちだった。
相手の腹筋を壊すような拳を繰り出したこともある。
鋭く、そして速く、何より恐い打撃を打ってくる選手と試合をしたこともある。
勝ちたいなどとは、いつも思っている。
しかし、そういう、今までのものとは、明らかに違うものだった。どう、などと理論的には、これでも桃矢は頭はいいつもりなのだが、説明できないが、確かに感じているものは、経験したものとは違った。
寺町に、勝てたこと。それを、今かみしめるように、桃矢は喜んでいた。そして、ただまだ戦いたい、と感じていた。
とにもかくにも、何か嬉しかったのだ。だから、桃矢はバカのように、ただし、声は殺して、笑っていた。
表彰式にまでで、動けるだけ回復していれば十分だと思って、マッサージさえ頼まなかった。アイシングだけ、強く言われて、仕方なくやっている。
試合の終わった後のフォローも、今まではむしろ慎重なほどにやっていたはずなのに。今日だけ、いや、この試合だけは、それもいらない、と思えた。
次からは、慎重になれるだけなるだろう。それが、北条桃矢のやり方だ。だが、今だけは、ただ、この喜びに身を任せていたかった。
ふいに、部屋の外の気配が動いて、桃矢は身体を起こした。部屋には入ってくるなとは言っているが、心配して入ってくる可能性はある。一番見せたくない相手になさけない、そしておかしな姿を、見せるつもりはなかった。
扉を開けて入ってきたのは、しかし、部屋の前で待っていた人物とは違っていた。
「親父……」
まるで歩く凶器を思わせる、しかしにこやかな笑みをした、鬼の拳、北条鬼一が、やはりいつも通り笑顔のまま、部屋に入ってくる。
部屋の外にいた人物の、申し訳なさそうな顔が一瞬桃矢にも見えたが、他の相手ならともかく、北条鬼一が訪ねて来たのなら、通さないわけにはいくまい。桃矢も、それを責めるつもりはなかった。
しかし、正直、来るなどとは思っていなかった。それは、教えることには何らもったいぶることのない北条鬼一だが、桃矢の試合前、試合後に、自分から何か言いに来ることなど、今までなかった。そういう意味では、放任主義というより、無関心に近かったのだが。
「何のようだ、親父。ぼろを出した子供を笑いに来たか?」
自然、口調がきつくなる。桃矢は、北条鬼一のことを、父親としても、格闘家としても、大好きだったが、しかし、まさか地区大会を優勝したぐらいでほめに来たわけでもないことは、予想できた。むしろ、いじめに来たに決まっているのだ。
「それはもう一試合目に笑った」
何を今更、と北条鬼一は、豪快に笑う。今までのいい気分をぶちこわしにされたみたいで、桃矢はむっとした。
しかし、今なら、勝てるとも思えないが、どこか頭のねじが飛んでいるところがある。普通は、冷静に北条鬼一とは戦うのを避ける相手だが、腹がたったので殴りかかるぐらいのことは、できるような気がした。
もっとも、そこまで身体は動いてはくれず、父親に殴りかかる、という自分にとって命の危険もあるチャンスを、桃矢は見逃すしかなかった。
「なら、何しに来たんだ?」
「彼女を見に来た、と言ったらどうする?」
桃矢は、これ以上ないほど顔をしかめた。部屋の外で、律儀に待っている、一応北条桃矢にとっての彼女、と、北条鬼一とは、面識がないはずだが、この怪物の父親が、気付いているのなら、黙って見なかったことにしてくれるとは思えなかった。
だいたい、普通の感覚だって、父親に彼女を見せる、というのは嫌なのだ。その父親が北条鬼一なら、嫌がるのは当然だ。
「そう嫌な顔をするな、冗談だ」
「わかってるさ」
だからこそ、嫌なのだが。
「で、ほんとに何の用だ? 褒めに来たなんて、嘘でも言うなよ」
もちろんだ、といわんばかりの顔に、桃矢は頭痛を覚える気がした。強さも含めて、この父親だけは、桃矢にはどうしても理解できないものなのだ。化け物のように強い不条理など、理を信条とする桃矢には、一番相性の悪い相手だ。
「なに、一つ聞きに来ただけだ」
「何だよ?」
北条鬼一は、桃矢の前では珍しく、表情を整えて、聞いた。
「自分自身で戦った感想は、どうだ?」
どこか、それを予想していた桃矢は、三秒ほど考えてから、素直に答えた。
「最高だったよ」
鬼の拳、北条鬼一の息子、日本を代表する格闘家の一人となる、北条桃矢にとって、今日が、本当の意味での、デビュー戦となった。
続く