「フゥゥゥゥゥゥ……」
葵は、軽い準備運動を終わらせて、大きく深呼吸をした。
今日は、エクストリームの予選であり、ナックルプリンスやナックルプリンセスだけではなく、他の階級の試合もあった。今は、他の階級の決勝が行われているところだ。
葵の出る、ナックルプリンセスの決勝まで、もう大して時間はない。何せ、準決勝は、相手選手の負傷で、自動的に葵の相手だった篠田選手が三位ということになったからだ。
もっとも、篠田選手にしても、葵にKOを喰らって、本当に試合をしたらどうなっていたかもわからないのだが、少なくとも病院に直行しなければいけない怪我はなかった。その分だけ、相手よりも有利に働いたということだ。
ちなみに、ダメージの面から言えば、葵だって決して余裕のある状態ではない。それなりの時間は経っているものの、篠田選手から受けたダメージは、完全に治るというわけにはいかないものがある。
反対に、これから葵と決勝で当たる吉祥寺選手は、葵と比べると、ごく僅かのダメージしか受けていない。相手が弱かったのか、吉祥寺選手が強かったのか、判断はつかないが、実力もさることながら、運に関しても、吉祥寺選手は恵まれていたということだ。
こういう一日に何度も試合のある形式では、当然強い選手に当たって、ダメージを受けるというのは不利だ。
葵などは、まだ若いので、強敵との試合が、いい経験となることはある。浩之などは、その典型的なタイプだ。だから、どちらが有利と一概に言えなくもない。
それでも、葵は自分の不利を、ちゃんと認識していた。
「葵ちゃん、調子は?」
「はい、悪くないです」
毒にも薬にもならない浩之の質問に、葵は当たり障りのない返答を返す。
調子もくそもない。自分が不利なのは、葵にはわかっていた。
蓄積されているダメージの量が、まず違う。
そして、格闘スタイルが、同じ打撃系であるにも関わらず、相手の方がリーチが長いというのは、間違いない不利だ。
それに、葵は、今までの試合で、自分の中のかなりのものをすでに出してしまった。反対に、吉祥寺選手は、おそらくは、自身の技を、まだ全ては出し切っていないどころか、多くの残した状態で、決勝にのぞんでいるはずだ。
技を知られているのと、知られていないのとでは、大きな差が出るのは周知の事実。葵は、全力で技を出してしまった。試合を吉祥寺が見ていたとすれば、タイミングや、どんな技を使ってくるかは、読まれているだろう。
しかし、その不利をしても、葵は、自分が負けるとは到底思えなかった。
強者と、吉祥寺選手の相手が弱かったとは思わないが、自分の戦った相手よりも強かったとは思えない、戦った経験は、確実に葵に生きている。
試合で見せた技は、相手に読まれると同時に、恐怖心も植えつけられるだけの技を出したつもりだ。
タイミングだって、横から見ただけで、簡単に読まれるような単調なものにはしていない。
「ダメージは、回復した?」
「全部とはいきませんよ。皆さん、強かったですから」
浩之が、葵の当たり障りのない言葉の裏の意味を読んで、尋ねて来たので、葵は、素直に答える。強がる気は、まったくなかった。
「でも、大丈夫です。このダメージは、私が成長した証みたいなものですから。センパイだって、ダメージが残っていても、勝てたじゃないですか」
「ん……まあな。相手にもダメージがあったし……」
浩之は、しかし決勝には出られなかった。それを浩之自身、少しバツが悪く感じることもあるのだが、しかし、KOされるダメージがあったにも関わらず、浩之は三位決定戦に出て、勝った。
「でも、俺の場合は、相手もダメージがあったからな。でも、葵ちゃんの場合、相手が無傷に近いからさ。こういうとき、決勝だけでも、明日にして欲しいと思うな」
葵の実力を疑っているわけではない。わざわざ不利な状況で戦わなければならない葵を、心から心配しているのだ。
「そういうわけにもいきませんよ。大丈夫です、センパイが応援してくれれば、私、がんばれますから」
葵の心から精一杯の告白に、浩之は、ちょっと照れてから、応えた。自分のやることは、葵の戦力を冷静に測ることではなく、葵を応援することだ、と思い出したのだ。
「よ〜し、なら、力の限り応援させてもらうぜ!」
「はい、お願いします!」
これだけ聞けば、師匠と弟子にも思えなくもないのだが、何せ、葵は浩之よりもかなり強いのだから、一応援者ぐらいにしか、役に立たないのは確かなのだ。
だが、その応援こそ、あがり症の葵が、ここで勝てた理由で、そして、今不利な試合に向かうにも、笑顔で行ける理由だった。
吉祥寺選手は強い。しかも、自分とは格闘スタイルが、かなりかみ合うだろう。となれば、冷静に見れば、自分は不利な要素しか見つけられない。
しかし、今日、強敵と戦った経験は、必ず葵にとってプラスになると信じれる。
そして、自分を応援してくれる、浩之の姿が、何より葵を落ち着かせ、そして戦意を掻き立てる。
吉祥寺選手は、長身でけっこう綺麗なので、心より応援してくれる男の人が、もしかすれば、葵と浩之のように中途半端ではなく、ちゃんとした恋人が、いるかもしれない。
しかし、その人が、言っては何だが、浩之よりも素敵な人だとは、思わない。
ぶっちゃけて言えば、葵にとっては、浩之よりも素敵な人などいない。
それが、葵のどこを拠り所にしているのかわからないような自信の正体だった。
センパイが、応援してくれる。自分に向かって、精一杯声を張り上げてくれる。
そう思うだけで、試合とはまた違った高揚感が、葵の中を満たす。それを原動力にする限り、自分が動けなくなることはないとさえ思う。
不利は承知。しかし、圧倒的不利なのは、慣れている。
浩之を、綾香と取り合うことを思えば、今の不利など、吉祥寺選手には悪いが、ものの数ではない。
そして、吉祥寺選手は強いとちゃんと、浩之のことを含めてもちゃんと、冷静にわかっていてもなお。
葵は、負ける気などない。勝つ気で、試合に臨む。
自分の、あこがれたもの、浩之と、綾香。その二つに向かうには、今ここで負ける訳にはいかない。
決意一つで勝てるような甘い相手ではない。しかし、決意なく、勝てる相手でもない。だから、葵は決意だけでも、はっきりしておかなければならないのだ。
負けないとか、そんな消極的なものではない。
勝つ、絶対に勝つ、何があっても勝つ。
それが、自分が行こうとしている道の、唯一の方法なのだから。
「センパイ、私、がんばります!」
「よし、行って来い!」
「はいっ!」
葵の瞳に、躊躇はなかった。ちゃんと、前を見て、葵は大きな返事をした。
続く