打撃に関わらず、格闘というものは、大別すれば、二つの行動しかない。
攻めるか、守るか、だ。
逃げるとか、カウンターを狙うとか、そういう細かい話は置いておいて、本当に大まかに大別すれば、その二つだ。
当然、どちらが有利、というわけではない。
攻めた方が有利、というのは、いかなる猛者でも、全部の攻撃をさばくというのは難しいということだし、守った方が有利というのは、だいたいにおいて、状況が自分に有利だということだ。
現在、葵にとって状況が有利というわけではない。
だから単純に、攻めた方がいいと葵は思っている。どんなに深く考えようとかまわないが、大まかなところは、結局かわらないのだ。シンプルに出した答えが正しい可能性は、思う以上に高い。
しかし、そのためには、変な話なのだが、吉祥寺に守らせては駄目だった。守りに入った吉祥寺を攻めるのは、非常に難しい。不可能とは言わないが、全てが全て、葵の方が不利になってしまう。
つまり、吉祥寺にも、攻め気を持ってもらわないといけない。だからこその、餌だった。
それも、露骨なものではない。単純に隙を見せるだけでは、吉祥寺は警戒して手を出して来まい。露骨ではなく、しかし、守るよりも利益の多い隙を見せねばならなかった。
そういう意味では、葵は役者だった。
吉祥寺が、重心を後ろに構える、守り、いや、逃げの構えから、本来のものだろう、攻撃的構えに変化する。
腕を引いて、あまり大きく左半身にはならない。
ガードは、極力使わない構えだ。使ってもいいが、グローブではなく、ウレタンナックルでは、相手の打撃を吸収するというわけにもいかない。相手の攻撃は、全て避けるのだ。
そして、あまり半身を強くせずに、前を向いたような構え。正中線を隠すのは、必要最低限にしている。
これも、葵としては予測範囲内の構えだ。
腕を引いて、正面を向けば両腕が、どちらも速く打てる。そして、速い上に、十分な力をのせることが可能だ。
その分、防御は劣るが、しかし、フットワークで前後左右に素早く動く吉祥寺の正中線に打撃を当てるのは、難しいだろう。
どんな打撃だろうが、急所にさえ当たらなければ、耐えることは可能だ。そして、そう簡単には、急所には当てさせない自信と理がある。吉祥寺の構えは、多少の打撃は、どうしても当たってしまう打撃戦での、スタンダードな構えとなる。
対して、葵は、いつもの構えから、構えを変えない。
横を向いているということは、つまりは、前に出るのに一番適しているということだ。そして、最大の威力は、正面を向くよりも、半身の方が出る。
的確な連打でつないで、最終的に勝つキックボクシングという競技と、たった一度でもそのチャンスをもぎ取る、必殺を目指す空手。
この構えの違いは、そんな二つの格闘技の違いから出ていた。
そして、二人の体格差が、そうさせるという部分もあった。
「よし、向こうも、待ちをやめたみたいだな」
浩之は、二人の構えを見て、単純にそう喜んでいた。
いや、確かに喜ぶ場面だ。待ちとか、そういう搦め手相手を、葵があまり得意としていないだろうと、浩之は思っていたからだ。
それは事実だ。葵は決して弱くない。いや、おそらくは、かなり強い。男子だろうが、浩之は相手にならないし、あの格闘バカ、寺町にさえ勝つだろう。
しかし、残念ながら、葵には、経験が致命的に不足していた。多くの種類の戦い方を、多くの種類の選手が行ってくるエクストリームでは、経験不足というのは、かなりリスクが大きい。
それすらもはねのける強さを持った綾香は優勝したが、吉祥寺のような、キックボクシングでも、そしてエクストリームでも経験の豊富な相手は、正直苦手なはずだ。
とくに、吉祥寺は、おかしな手は使って来ないものの、真っ正面からだろうが、搦め手だろうが、苦手としている様子はない。
だから、吉祥寺が打撃の打ち合いに応じたのを、浩之はただいいことだと思った。
しかし、そんなわけがないのだ。冷静に考えてみれば、すぐにわかる話なのだが。浩之も、天才とは言え、やはり経験が足りないのだろう。
「そんな簡単な話じゃないわよ。何で、吉祥寺が打ち合いを選んだか分かってるの？」
「え……そりゃ、有利だと思ったからだろ」
「そうよ。経験豊富な人間が、有利と思うんだから、まず間違いなく、有利ってことじゃない」
「……まあ、そうだけどな。でも、葵ちゃんなら、正面から打ち合いは、望むところだろ？」
浩之を、葵が手放しで褒めてくれるのと同じく、浩之は、葵の強さを確信している。もちろん、危なくなれば、ハラハラして見てはいるが、だが、ちゃんと胸の奥では、葵という強者は、やはり最後は勝つと、無条件で信じている。
「苦手じゃないってだけよ。ううん、葵だって、自信はあるだろうけど……吉祥寺の方が、有利だから、吉祥寺は待ちをやめて、打ち合いに応じるのよ？」
「吉祥寺の方が……有利？」
「そう、これは単純に、体格の差でね」
浩之は、はたと気付いた。葵の打撃は強い。だが、吉祥寺の打撃も強いだろう。仮に、どちらも同じ威力があるとすれば。
「体格的に、葵は吉祥寺よりも打たれ弱いのよ。だから、刻むダメージを考えて、ボクシングスタイルになってるってわけ」
綾香の言葉と同時に、吉祥寺は手を出していた。
パパンッ！
スピードの乗ったワンツー。身体を切り返す必要が最低限なので、葵のスタンダードな構えからよりも、速く感じる。
距離があったのもあるし、それぐらいの打撃は予測していたのだろう、葵は腕ではじいたが、しかし、葵は打ち返すことはなかった。
「葵は、小回りは利くかもしれないけど、残念ながら、空手よりもキックボクシングの方が、技が小回りが利くのよ。葵だって、そのことをわかって練習してきてるけど、本職には、どうしても僅差で負けるわ」
今は、確かに防御が間に合ったが、次も間に合うという保証はない。その次も、またその次も。
致命傷にはほど遠い打撃でも、何度も受ければ、スタミナは削られ、ダメージは蓄積されていく。
吉祥寺の狙っているのは、それだ。自分も確かにダメージは受けるだろうが、幸い、この後に試合はない。そして、一発が同じダメージなら、手数が多く、身体が頑丈な吉祥寺の方が有利、ということだ。
今までダメージの多かった葵にとって、長期戦はまずいのだ。今日受けたダメージは、まだ完全には消えていないのだから。スタミナだって、完全な状態に比べれば、目減りしている。
だから、吉祥寺が打ち合いに応じたのは、当然であり、必然。
葵は、まだまだ不利な状況で、この猛者と戦わなくてはいけないのだ。
続く