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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(205)

 

「待てっ!」

 一ラウンドの終了の合図は、実際に戦っている葵は、本当に待ち望んだ言葉だった。

 様子を見ることが多かったとは言え、それでも動かなかったと言えるほど、悠長に試合をしていたわけではない。

 事実、葵の息はすでにあがっていた。無酸素運動を続ける格闘技で、三分で息があがるなど、普通の話だが、それが葵だとなると、話が違ってくる。

 息はあがるかもしれない、しかし、少しの時間でそれを回復することができる。葵にはそれだけのスタミナがある。

 その葵が、すでに息があがっており、かつ、一分の休憩では息を整えられそうにないというのは、試合の激しさと、相手のプレッシャーの強さを認識させた。

 ダメージも、本当にこれが一ラウンド目か、と思われるほどに受けている。本当なら、ダメージの蓄積がある葵としては、最後の最後まで、ダメージは受けてはいけないぐらいなのだ。削り合いになったときに、ダメージの少ない方が勝つのは必至だからだ。

 だが、疲労やダメージの点で言えば、吉祥寺だって同じようなものだった。たった一ラウンドでここまで疲労させられるとは、と吉祥寺も思っているだろう。

 よしんば、今までの経験で、ここまで疲労することを予測していたとしても、その具合から、葵のプレッシャーの強さはおしてはかれるであろうし、ダメージに関して言えば、予想範疇外なのは間違いない。

 普通の選手ならば、ローキックが直撃したところで、勝つ自信があったろう。吉祥寺の全力のハイキックは、ダメージを受けて浮ついた相手が、二度も耐えられるものではない。

 そこを耐えたとしても、さらに倒れた相手、または体勢を崩した相手の首を取って、膝蹴りにつなげるという技がある以上、一度のチャンスは、勝利と同値だったはずだった。

 それを、葵は見事に防いで見せたうえに、さらに、フェイントも織り交ぜた攻撃で、吉祥寺に少なからずダメージを当てて来たのだ。

 そのダメージさえなければ、一ラウンドは完全に吉祥寺の優位で終わっていたはずだ。いや、それどころか、試合そのものが終わっていたはずなのだ。

 殺しきれなかった相手の恐ろしさを、吉祥寺もよくわかっているだろう。二ラウンド目は、一ラウンドよりも死にものぐるいで来るのは目に見えていた。

 もっとも、葵だって、すでにこちらを甘く見てくれるとは、思っていない。吉祥寺の強さも十分に見せてもらったが、こちらの強さも、十分に見せた試合だったのだから。

「葵ちゃん!」

 戻って来た葵に、浩之はだきつくようにして、葵をすぐに座らせる。綾香も、普段ならつっこみのパンチの一つや二つは入れるだろうが、しかし、今がそういう場面ではないので、さすがに手を出さずに、見守っていた。

 浩之は、吉祥寺のローキックの入った場所へ、用意していた氷を押しつける。アイシングだ。少しでも内出血を押さえ、ダメージを減らせるためだ。

 そして、葵が落ち着いて息を整えているのを見て、かかえていた葵の身体から腕を放し、置いておいたスポーツドリンクの水筒を取る。

 言葉もなく差し出された水筒を、葵は頭を小さく下げて受け取った。お礼を言う間も、今の葵には惜しい。少しでも多く疲労を回復し、ダメージを消しておくことこそ、今やらなくてはいけない一番のことなのを、葵はちゃんと理解していた。

 スポーツドリンクも、一口だけふくんで、乾きを潤すようにしながら、飲み下す。本当なら、がぶ飲みしたいところだが、それぐらいの精神のコントロールを誤るほど、葵の頭はダメージを受けてはいない。

 葵は座ったままで、息を整える。ほんの少しの休憩だが、それが勝敗を決するのはわかっていた。

 ただ、浩之からも、坂下からもアドバイスがないのが、少し不思議だった。

 アドバイスはしない、と宣言している綾香はともかく、浩之と坂下は、けっこう試合に対してのアドバイスをしてくれる。それが効果があるかどうかは置いておいて、ある意味、精神安定剤のような効果があるのは確かだった。

 しかし、それを不満に思うことも、物足りなく思うことも、今の葵にはなかった。

 ほとんどかかえるようにして懸命に自分に尽くしてくれる浩之がそこにいるというだけで、これほど心強いものはなかった。

 胸の高鳴りは、葵を高揚させこそすれ、回復の邪魔をするわけでもなく、むしろ身体の奥から力が沸いてくるようにさえ感じるのだ。

 疲弊した身体が休息を求め、葵の心は浩之を求める。そんな葵にとって、少しでも続けばいいと思うような時間だからこそ、その休息は、すぐに終わりを告げた。

「両者、位置に戻って!」

 審判の合図に、葵は、その気持ちの良い場所から、すくり、と躊躇もなく立ち上がった。

 休息と、目的をはき違えたりしない。今は、勝つことが目的なのだ。心地良い場所に、一瞬でも未練を残しておけるほど、吉祥寺選手は甘くない。

 浩之は、そんな葵の肩を、後ろから慈しむように、ぽん、と前に押した。

 それは、未練とかとは関係なく、葵の身体に、みなぎる力を与えてくれた。

 言葉がなくとも、葵は、浩之の優しさを十分身に受けたし、浩之は、できる限りのことを、葵にやってやったのだ。

 今度こそ、力強く前に出る葵の背中を見送りながら、何も言わず、何も手出しをしなかった綾香が、浩之に耳打ちする。

「どうしたの、何のアドバイスも応援もなし?」

「いや……正直、アドバイスのやりようがないだろ。あれだけの動きをされたんじゃあ、俺の出る幕なんてないさ」

 浩之は少しちゃかすように言ったが、その心に嘘はない。葵の動きも、相手の吉祥寺の動きも、浩之が考えられる範疇から、すでに逸脱している。

 何より、吉祥寺に隙がないのだ。浩之は、自分が相手なら、それでもこじ開けるような戦い方を選ぶだろうが、それは危うい。危うい上に、正直吉祥寺相手では、通用しないだろう。

 基本に頼るのではなく、基本を「使う」相手には、浩之のようなトリッキーな攻撃は効き難い。セオリーを無視したときに出来るものは、ほとんどがマイナスなのだ。そこで生まれるとがったプラスを、相手のマイナスにたたき込むことにより、浩之は策を成功させて来たが、安定した相手には、そのマイナス自体がなく、冷静ならば、仕掛けたこっちに生まれたマイナスを攻撃される。

 それがわかっていても、浩之は勝機に賭けるしかない。しかし、葵には、十分に勝機がある。

 この試合が、本当にぎりぎりのところまで行くのはわかる。葵とて、余裕を持って勝てる相手ではないこともわかった上で。

 それでも、葵は正面から戦える、と浩之は考えるのだ。

 そして、綾香にももちろんわかっていて、少しの嫉妬を混ぜて言った応援は。

 浩之は、これ以上ないぐらいに、葵を応援していた。

 そうやって応援されて、やる気のにじみ出る顔で試合場に出てきた葵を見て、同じく試合場に出て来た吉祥寺が、珍しく、中途半端に嫌な顔をする。

 吉祥寺選手は、今までの様子を見て、試合中に男といちゃいちゃする、と言ってもそれほどのことをしたわけではないのだが、ような相手は、思い切り睨み付けるだろうと、葵は思っていたのだが。

 ……もしかしたら、うらやましいのかも。

 場違いなことを、葵は考えていた。吉祥寺に恋人らしい人がいたとしても、人前で堂々といちゃいちゃする、というのは、吉祥寺を見る限り、あまりなさそうに見える。そういうことが、うらやましいのかも、と考えたのは、あながち間違いではないのかもしれない。

 しかし、そんな平和そうな思考も、すぐに切り替わる。

「それでは、二ラウンドを開始します」

 その一言で、さっきまで二人の間にあった、一種ほのぼのした雰囲気は、一気に押し流され、後には、張りつめた空気が場を支配していた。

「レディー……」

 お互いに、それぞれに合った構えを取り、葵と吉祥寺は、お互いを、睨み付けた。

「ファイトッ!」

 

続く

 

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