作品選択に戻る

最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(210)

 

 葵の身体は、大きく後ろにのぞけった。いや、それはのどけるというよりは、後ろに吹き飛ぶようだった。

 葵の小さな身体がマットに着く前に、吉祥寺は脚をマットにつけ、そのまま崩れ落ちるように尻もちをつく。

 ズダンッ!

 葵は、反対に激しくマットの上に倒れた。

 受け身は、ほとんど取れていない。後頭部を打つのは何とか避けたようだったが、それ以上の受け身は取れなかった。

 衝撃で、息のつまった葵は、身体の自由を数瞬失う。

 葵は、それでも一秒後には、身体を入れ替えて、仰向けの状態から、うつぶせになる。

 その動きの間、葵の意識は、実のところはっきりしていなかった。本能にも近い練習の成果で、身体が勝手に防御の姿勢を取っただけだ。

 相手が吉祥寺のような打撃系の格闘家でも、仰向けの状態で上に乗られたら、組み技で仕留められる可能性は否定できない。もちろん、意識は半分ほど飛んでいたのだから、そんなことを考えての動きではなかったが、動きとしては正しかった。

「葵ちゃん!」

 浩之の、その細身からどう出しているのかわからないような大きな叫びを、聞いて、葵はやっと意識を取り戻した。

 意識を取り戻すと同時に、とっさに、葵は顔をあげる。浩之に無事を伝えるより何よりも、吉祥寺の動きを見ないといけないと思ったのだ。

 顔をあげた葵が見たのは、葵を親の敵のように睨み付ける吉祥寺の顔だった。

 一瞬だけ、それに気押されそうになったが、すぐに葵の頭は動いた。

 来ない?

 吉祥寺の視線は、手と膝をついた葵と大して変わらない位置にある。それなのに、吉祥寺は、何故か葵を掴もうとはしていなかった。

 首を掴まえてしまえば、持ち上げての膝蹴りが吉祥寺にはある。葵の認識では、あれをやられたら、それでKOされる技だ。吉祥寺も、そこのところはよくわかっているはずであり、葵が打撃専門の格闘家である以上、倒れたら首を掴みに来るだろうことを、葵は予測していた。

 なのに、吉祥寺は、それをせずに、葵が倒れているのを、見ている。いや、物凄い形相でにらみつけている。

 何故、掴みに来ないのだろうか?

 そう考えながらも、葵は立ち上がろうとして、しかし、失敗していた。幸い、何故かカウントは始まっていないようだが、自分の耳がおかしくなっているのでは、という恐怖から、葵はゆっくりなどできなかった。

 それに、カウントが始まっていない、ということは、吉祥寺選手に掴まれたら、そのまま試合が進んでしまうということだ。今の自分にとって、それは致命的となる。

 しかし、いくら経っても、と言っても、わずか数秒の話なのだが、吉祥寺は葵をにらみつけたまま、動こうとはしなかった。

 あせりながらも、少しずつ、葵は冷静さを取り戻し、そして、吉祥寺が攻めて来ない理由が、やっとわかった。

 吉祥寺は、女の子座りのような体勢で腰を下ろしたまま、動いていないのだ。にらみつけているのは、自分が動けない所為で、せっかくの獲物に、とどめを刺せないからだったのだ。

 そう、カウントは始まっていない、ということだ。エクストリームには、ダブルノックダウンなどというものはない。レフェリーストップはあるが、その場合、どちらも負けだ。

 そして、今回、葵にも吉祥寺にも、まだ戦う意思があり、かつ、両方立ち上がろうとしていた。

 葵は、自分から立ったところで、大して有利になるわけではなかったが、それでも必死に立ち上がろうとしていた。

 有利にはならずとも、先に立ち上がられると不利になる、ということはある。

 それに、葵にも意地がある。試合とはまったく関係ないものだったが、ここで負けるか、という気持ちが、意味もなく強くなって来る。

 吉祥寺も、ここで立てば自分が有利、と思っているのか、やはり意地なのか、必死で立ち上がろうとしていた。もう、葵をにらみつけることさえやめて、自分の脚に渾身の力を込めているようだった。

 もがき苦しむような二人の動きに、しかし、体育館の中は、歓声に包まれた。試合とは無意味な、意地の張り合い、だからこそ、見ている者達には、手に汗を握らせるのだろう。

 葵は、必死に立ち上がろうとする中、自分のうかつさを、悔しがる余裕さえなかった。でなければ、悔しさに叫んでいたかもしれない。

 しかし、それは葵がうかつだったわけではない。吉祥寺のうまさと、意地、それが葵の予想を超えたのだ。

 吉祥寺は、あごに一撃を受けて、脚に力を伝えられなくなった。葵は、だからこそ蹴りはないと予測したのだ。

 しかも、至近距離まで入ったことによって、完全に蹴りの可能性を捨てた。

 その意識を捨てた瞬間を、吉祥寺は狙ったのだ。

 あごへのとび膝蹴り。

 あの脚の状態で、飛ぶという無茶を、吉祥寺はこなしたのだ。しかも、スピードはいつもよりも遅くとも、膝蹴りを予測していなかったのと、さらに葵の前進の力を利用して、カウンターぎみに膝を入れたのだ。

 葵も、もちろんそれを直撃で受けたのではない。何をされたのかわからなかったはずなのに、とっさに後ろに飛んだ。カウンターになるはずの力を、かなり殺したのだ。でなければ、これほど早く意識が戻るはずがない。

 そして、意地で動かしていた吉祥寺は、そこまでが限界で、マットの上に倒れ、葵に追撃をかけることができなかったのだ。

 ぐわんぐわん、と葵の頭の中で、まだ脳が揺れている。吐き気を覚えたが、今の葵には、あえぐ暇さえなかった。

 同じように、吉祥寺の脚にも力が入らないことだろう。意識はあろうとも、間違いなく脳震盪を起こしているのだ。意地で動かしたこと自体、常識を外れている。

 歓声も、二人の耳にはほとんど入っていなかった。一秒でも、一瞬でも相手よりも早く立ち上がることに、必死だったのだ。

 立ち上がったからと言って、今の状態では、二人とも攻撃できるほどの動きはできないだろう。しかし、そういう問題ではないのだ。

 のろのろと、二人の膝が同時にマットから離れる。

 お互いに、相手よりも先に、と思いながらも、決して相手の方を見ない。見る暇があれば、それだけ、身体を動かす。

 だから、お互いに、相手がいつ立ち上がったのかは、わからなかった。

 しかし、それでも、わかっているのは、自分が目を向けたとき、相手も、すでに立ち上がっていたという、事実だ。

 

続く

 

前のページに戻る

次のページに進む