「やれるかい?」
「はい、大丈夫です」
葵は、何とか声を作って、審判の問いに答えた。実際のところ、頭は妙に冴えている。口は油断するとうまく動かないが、しかし、戦えない状態ではなかった。
審判は、二秒ほど葵を目で確認して、今度は同じように吉祥寺にも問いかける。
吉祥寺の答えも、同じようなものだった。審判が目を葵に向けているときこそ、脚がふらついていたが、見られると同時に、脚の震えが止まる。いや、止めたのだろう。
意識の方は、むしろ葵よりもしっかりしているだろう吉祥寺だから、脚に力が入らないのさえ隠しておけば、止められることはないだろう。
審判は、やはり吉祥寺を二秒ほど観察して、手をあげた。
「それでは、ファイトッ!」
止められるなどとは思っていなかった二人は、審判の声よりも先に、構えを取っていた。しかし、同時に、今自分が攻めることができないのも、理解していたようで、脚が止まった。
相手は瀕死、しかし、こちらも満足に動ける状態ではない。狙い澄ましたカウンターをもらう可能性も高い。動かないのが正しい選択だろう。
正しい選択、なるほど、それは正しい。
しかし、葵はそんな気分にはなれなかった。待っていることが正しい、と頭では理解しているつもりなのだが、身体は、前に出ようとしていた。
だが、所詮はKOされかねないダメージを受けた後、動きは鈍い。これで攻めても、相手は脚は動かずとも、腕は動く。カウンターの餌食だろう。
少し動くだけでも、かなりの疲労を伴う今、葵は、フェイントを入れようとしていた。吉祥寺の意識ははっきりしているとは言っても、平常時と比べれば、反応は遅れているはず。ここにフェイントは、大きな効果を及ぼせるはずだ。
ダメージを受け、さっきまで寝転がっていた人間とは思えない、葵の判断だった。頭にダメージを受ければ、頭の回転や冷静さは落ちる。こんな状況でも、まだそれを考えられる葵は、酷く冷静であるということだ。
前に出るフェイントは、効かない。今吉祥寺は動けないのだ。だから、後ろに下がるフェイントをかける。
身体を前に出して、そのまま後ろに下がる。身体を使ったフェイントだ。素早く動き、飛び込んできたと思わせて反応させるのが目的だ。
しかし、これをゆっくりやれば、単にダメージで動きが鈍くなっているためのフェイントの失敗だと感じるだろう。
葵の狙いは、その後。後ろに下がることがフェイントであり、後ろに下がると見せかけて、前に出るつもりだった。
ローキックがありえない今、スピードの乗ったリーチの長い打撃はない。そして、一度は跳び膝蹴りに迎撃されたものの、距離を詰めれば、やはり葵の方が有利のはずだった。
葵は、いつもよりも遅いスピード、これ以上は出せないのだ、で吉祥寺との開いた距離を詰めようと、前に動いた。
と、同時に、吉祥寺も前に出ていた。
吉祥寺の予想外の動きに、葵は一瞬冷静さを失ったが、しかし、吉祥寺と葵の距離がつまるだいぶ手前で、我に返っていた。
まさか、ここで前に出てくるとは。これで、考えていたフェイントは使えない。後ろに下がったところに、前に出られては、ただ詰め寄られるだけだ。そして、まさか葵が懐に入ってくるまで、吉祥寺が攻撃をして来ないとは思えない。
しかし、前に出てくるのなら、それをカウンターには取れる。すでに、飛び膝蹴りなら、十分反応できるし、他の打撃であっても、動きの遅い吉祥寺相手ならば、ちゃんと見ればカウンターに取れるはずだ。
所詮、飛び膝蹴りは、隙が大きすぎる。二匹目のドジョウを狙うつもりなら、返り討ちだ。
打撃の射程内に入る前に、吉祥寺の身体が、前に倒れる。
バランスを崩した?
葵がとっさにそう判断したのも、無理からぬことだった。吉祥寺は脚が満足に動かないはずだ。バランスを崩して倒れたとしても、不思議ではない。
しかし、吉祥寺の前進は止まらない。
上体を落とした格好は、もう打撃の打てる格好ではなかった。打ってもいいが、そんな大降りを、葵が見逃す訳はない。
むしろ、タックルに近い格好だった。
ここで、組み技?
組み付いて倒れて、組み技に持ち込む、というのは、そんなに悪い手ではない。脚は動かないにしても、寝技と立ち技で、脚が動かない弊害が、どちらが大きいかと言えば、立ち技に決まっている。
どちらも、打撃の方がかなり得意として、技に差がなかったとしたら、身体の大きい吉祥寺の方が有利であるのは間違いない。
だが、そのタックルはおそまつ過ぎた。横や下に逃げるにもあまり適していないし、これでは葵にとってみれば、顔面の蹴り放題だった。
よしんば、組み付かれたとしても、脚のふんばらない吉祥寺が、下から葵を倒す、というのは、さすがに無理がある。葵は、身体こそ小さいかもしれないが、腕力は早々負けはしない。
だから、葵は、前につんのめるように走り込んでくる吉祥寺の、その下がった頭に狙いをつけた。カウンターぎみに蹴れば、いかな吉祥寺とて、立っては来られないだろう。
そこから、さらに、吉祥寺の頭がマットにつくぐらいに落ち、吉祥寺は、手をマットの上についていた。
まだ、葵の打撃が当たる距離からは遠い。吉祥寺の蹴りだって、ここまでは……
吉祥寺のマットをついていた両手が、宙に浮く。
ゾクリッ
葵は攻撃を止めて、とっさに頭の上で、両腕を交差させ、腰を落とそうとした。
しかし、その打撃が入るまでに、両腕は間に合ったものの、腰を落とすまでの時間はなかった。
ズカンッ!
打撃、と言うよりは、砲撃にも似た音を立てて、葵の身体は、マットにたたき落とされた。
膝でマットをつく格好になり、葵の腕に、痛みが走る。しかし、葵にも、余裕はなかった。さらなる追撃を怖れて、慌てて立ち上がるぐらいしか、手だてはなかった。
上からの打撃を、脚はふんばれなかった分、後ろに逃げることによって威力を殺していたので、倒れた吉祥寺からは、大きく距離が開くこととなった。
すぐに距離を取って立ち上がった葵だったが、それはむしろ杞憂だった。同じく倒れた吉祥寺は、葵よりも遅く立ち上がったのだ。
正しい選択としては、立ち上がる前に距離をつめておくべきだったのだろうが、葵にも、吉祥寺が何をやったのか、すぐにはわからなかったのだ。
しかし、葵は、吉祥寺の、予想外の攻撃を、何とかしのいだ。
葵は吉祥寺の、その技の多彩さに驚きを感じながらも、しびれる腕の痛みを隠して、構えを取った。
続く