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最強格闘王女伝説綾香

 

四章・成長(213)

 

 脚が止まらなかった。

 葵は、必死で自分の身体が前に出ようとしているのを止めていた。しかし、それは結果として返っては来ず、葵の身体は、じりじりと前に出ていた。

 今は、守りについて、回復する方が正しいことなど、葵だってわかっているのだ。

 いかに相手も同じようにダメージがあったとしても、自分の身体が十分に動かないのに、攻めることなど、無謀を通り越して、無意味だ。

 頭では理解できている、と思う。

 思うと言ったのは簡単なこと、そのはずなのに、葵の身体は、今まさに攻めようと前に出ているからだ。

 どう攻める、どうやって吉祥寺の隙をつく、などと、難しいことなど、今の葵には考えられない。それでも、攻めてはいけないことぐらいは判断できているのだ。

 だが、葵の身体は、葵の意志に反して、前に出ようとしていた。

 いや、もしかすると、それこそが葵の意志なのかもしれない。思考よりも、葵の身体は的確に動いているのだ。

 それでも、今攻めることが、的確だとは、到底思えなかった。

 吉祥寺の間合いに、後少しで入る、というところで、葵の前進は止まった。今から、力を溜めて攻撃に移ろうとしている気配が、吉祥寺にも簡単に読めるだろう。

 こんな真っ正面から、攻めて有効な打撃を当てられるわけがないのに。

 そう思いながらも、止まっている間に、葵は覚悟を決めていた。自分の身体が、攻める、いや、攻めたいと思っているのなら、それを止めることこそ、自分の身体に対する裏切りなのでは、と思ったのだ。

 何より、どうせ攻めるなら、全力を持って攻める方がいいに決まっている。

 その決心を終えた、次の瞬間、葵は、唖然とした。

 いや、唖然としながらも、真っ正面からの攻撃で、葵が遅れを取るほど、葵と吉祥寺との実力の差は大きくない。それどころか、ダメージのある今、見切ることに関しては、防御側が有利なぐらいだ。

 そのわずかな隙間を、吉祥寺は一瞬でつめ、ローキックを葵に放っていたのだ。

 意表をつくのには成功したものの、打撃のスピードは大したことがなかったし、警戒していなかったわけではない葵は、そのローキックをあっさりと後退して避ける。

 吉祥寺は、しかし追っては来なかった。単発のローキックで、まさか仕留められるとは思っていないはずなのだが、追撃する気は、最初からなかったようだった。

 葵は、混乱した。こんなところで、吉祥寺が通用もしないジャブを放つ意味を、考えつかなかったのだ。

 それよりは、葵が攻撃してくるのを待ってカウンターを入れるなり、最小の動きでさばいて回復を図るなりした方が、正しい選択だと思ったからだ。

 そんな、気の抜けたローキックなどに、何の意味があろうか?

 動けば動くほど、吉祥寺の回復も遅くなるのだ。ぎりぎりまで動かない、攻めるという選択を選ばなかった吉祥寺にとって、その考えを実行に移すことこそ、正しいはずだ。

 葵にはわからなかった。何か、罠があるのでは、とすぐに疑いもした。しかし、それでも、まるで身体は葵の言うことを聞かずに、また間合いを詰め出す。

 今度は、吉祥寺は後退を持って、葵の動きに答えた。時間をかせぎたいのはわかるが、しかし、葵に攻めさせれば、かなりのチャンスにはるはずの状態で、それは消極的過ぎるように葵には感じられた。

 いや、そういうことではなくて。

 何がおかしい、とわかるわけではなかったのだが、葵には、吉祥寺の動きが、どうしても不自然に感じてしまうのだ。

 見ている観客も、吉祥寺が、ただ時間を稼ごうとしているようにしか見えなかった。しかし、その違和感に、浩之は気づいた。

「何で、動くんだ?」

 葵が攻撃することを言っているのではない。守って道を開いたことなど、葵は今まで一度もなかったのだ。それを本人よりもわかっている浩之には、葵の攻める気持ちを抑えようとは、思いはしても、実行はしない。

 吉祥寺が、守るにしても、動く意味がわからない。

 なるほど、リスクを最小にするための動きであるのはわかる。

 しかし、リスク回避というものは、リターンを消す意味もある。ましてや、吉祥寺ほどの実力者ならば、最小のリスクで、最大のリターンを得ることができる場面だ。

 それを、吉祥寺は、ただリスク回避をしているだけのように見える。

 今、吉祥寺が取る行動で、一番正しいのは、動かないことだ。攻めるにしろ、守るにしろ、ぎりぎりまで動かないこと。特に、脚を動かしたくはないはずだ。

 しかし、間合いと大きく取るために、吉祥寺は動いている。まして、ローキックなど、隙も大きいし、やりたくなどないはずだ。

 だからこそ、吉祥寺が先に攻撃した、というのには、何かあるはずなのだ。そこに罠があるのでは、と浩之も考えていた。

 そうやって、葵が疑心暗鬼に取られている間に、回復を図る、というならば、それは罠だったのかもしれない。しかし、それが成功しているとは、とても思えなかった。

「なあ、綾香。吉祥寺は、何しようとしてるんだ?」

 答えが返って来るとは思っていなかったが、不安になって、浩之は綾香に尋ねた。そこに罠があるとわからないのならともかく、あからさまに罠があると思ってしまうと、どうも落ち着かなかった。

 しかし、それこそが、この攻防の理由だった。

「何って、ただ逃げようとしているだけよ」

「いや、だから……」

 しかし、綾香は、浩之が最後までしゃべることを許さなかった。

「言った通りよ。だから、逃げてるの。守って時間稼ぎをしようとしているんじゃなくて、ただ逃げているのよ」

 綾香の言い回しに、浩之は首をひねった。一体、それのどこが違うのか、浩之にいはパッとはわからなかった。

「一緒じゃないのか?」

「違うわよ。吉祥寺が逃げてる……ううん、葵が、吉祥寺に逃げを打たせたのよ。無意味な攻撃の意志でね」

 それは、無意味と言ってしまうには、十分な効果が出ている。綾香も、それを認めない訳にはいかなかったし、もとから、綾香は、葵の無意味にも見える攻撃の意志を、尊重していた。

 何があるのかわからない、というのは、やはり嫌なのだ。それが、試合という機微の関係してくるものの中では、なおさらだ。

 葵は、攻撃の意志を見せた。それが効率的ではないことぐらい、十分わかるだろうにだ。意識が飛んでいる様子もないのに、その攻撃の意志。そこに、何かあると思うのは、何も不思議なことではない。

 だから、葵が攻撃の意志を見せたまま立ち止まった、少しの時間の空白のプレッシャーに、吉祥寺は耐えられなかったのだ。

 相手の出方を見るよりは、手を出した方が、先が読めるというのも、効率を考えれば、当然のこと。よって、吉祥寺はローキックを放って、嫌な雰囲気を持った葵を後ろに退かせた。

 それでも、問題自体が解決したわけではない。一時的に、後ろに下がらせただけだ。それが証拠に、葵はさらに前に出てくる。

 吉祥寺は冷静だった。だから、冷静に考えて、そして、効率を取ったつもりだったが、しかし、だからこそ、本当に効率の良い行動を取れなかったのだ。

 そして何より、葵の意味のある無意味な攻撃の意志は、吉祥寺の精神に、確実にダメージを与えていたのだ

 

続く

 

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