「待て!」
二ラウンドが終了する審判の合図まで、葵は吉祥寺に一発も攻撃を入れることができなかった。
手は多少は出せたのだが、逃げ腰の吉祥寺を捕まえられるほど、葵は回復していなかったのだ。もちろん、それは吉祥寺にも言えることで、間を取るだけの気の抜けた攻撃だからこそ、今の状況でも出すことができた。
攻撃は当たらなかったが、結局、立ち上がってからほとんど動いていた葵は、フラフラしながら、浩之達のところに戻ってくる。
浩之は、葵をかかえると、すぐに座らせる。
葵の身体は、焼けるように熱くなっており、汗が滝のように流れ、息もかなりあがっていた。それが葵の望んだ場所に立つための代価だとはわかっていても、浩之が心を痛めるような状況だった。
ここからは、浩之の仕事だった。一分の間に、できるだけ葵のダメージを消してやらなければならないのだ。
多少の休憩でダメージが抜ける訳ではないが、その多少の差が、勝敗をわける。もしそうでなくとも、浩之としては、やらないわけにはいかなかった。
水筒を渡された葵は、しかし、それに口をつけようとはしなかった。
息が上がりすぎて、吸い込むことができないのだろう。しかし、それだけは葵の力でやってもらわなくてはならない。
浩之は、すぐに葵の首筋や顔を冷やす。ダメージもさることながら、顔がはれると視界が悪くなる。ダメージを消すのと、顔のはれを押さえるのには、冷やすのが一番だった。
本当なら、身体全体を冷やしたいところだ。機械がオーバーヒートするように、熱のこもった状態は、身体に悪いし、効率を落とす。
葵は、目を閉じて、一生懸命、というのも変だが、休んで身体を回復させようとしていた。すでに、浩之にかかえられているという今の状況を喜ぶ余裕さえない。
この小さな身体で、どうしてここまで動けるのだろうか。
懸命に葵の回復をはかりながら、浩之は、昔感じた疑問を、再び思い出していた。
浩之の腕の中にある少女は、決して身体に恵まれたわけではなかった。むしろ、格闘家として、身体が小さいというのは、致命的だ。身体が大きければ力が強い、そして同じ技の技量なら、力が強い方が強いに決まっている。
それでも、葵は、体格にもめぐまれ、そして、同じように努力してきた相手と、対等に渡り合っている。それどころか、予選とは言え、すでに決勝にまで勝ち上がっていた。
才能、と言ってしまうには、あまりにも葵の姿は無惨なものだった。しかし、無惨ではあっても、まだ負けたわけではないし、押されてはいても、不利というわけではない。
目を閉じて、何とか呼吸を整えようとしている葵の手が、無意識にか、浩之の手に重なる。もう、水分補給はあきらめたのか、水筒には口を近づけようともしなかった。
その熱されたような小さな手を、浩之は軽くにぎった。それで、葵の気分が落ち着くのならいい。そんなボロボロの葵を見て、浩之も不安になっていたのだ。
無情にも、時間はすぐに過ぎる。一分など、ほんのわずかな時間でしかないのだ。
審判からの合図がある前に、浩之は、葵の肩を叩いた。
「葵ちゃん、立って」
大丈夫か、などとは、もう聞かない。大丈夫では絶対にないのは今更であるのだし、浩之は、葵の戦う意志を尊重するだけだった。
「はい」
葵は、気丈にも力強く答えると、浩之の手を放して、立ち上がった。そして、身体の調子を測るように、軽くステップを踏む。
一分もない休憩時間の間に、葵は思った以上に回復したように、浩之には見えた。しかし、それが単なる強がりではない、とはとても言える状況ではない。
「……葵」
試合場に向かおうとする葵を、綾香が止めた。
葵にアドバイスをしない、と言ってから、綾香は極力葵には何も言っていない。浩之がどんなに甲斐甲斐しく葵の世話をしていても、それに手を出そうとしない。
それは、綾香なりの葵に対する評価だ。対等な相手に、力を貸してやることこそが、相手を見下している証拠だ、と綾香は思ったのだ。
だから、これは後押しでも何でもなかった。むしろ、今までの葵からすれば、プレッシャーでしかないはずだ。
「勝ってきなさいよ」
綾香は、自分の希望を口にした。決勝にはもう絶対にあがってくるのはわかっているが、どうせ戦うのなら、葵に負けなど経験して欲しくないのだ。
どうせなら、真っさらな相手を、蹂躙したいという、綾香の破壊願望とも言える部分の出した、言葉だった。
それに、葵は、どこか満足そうに答えた。
「はい……勝ってきます」
葵は、そうはっきり言うと、綾香と浩之に背を向けた。
「両者、もとの位置へ!」
丁度、審判からの合図がかかり、葵は、歩を進めた。
勝ってきます、と言った葵の口調は、いつもの口調とはだいぶかけ離れていた。いつもの、体育会系のはきはきとした返事ではなく、もっと、言うなれば大人びた口調。強い意志があるのに、それが酷く落ち着いている。そんな口調だった。
そして、葵の意識は、完全に、目の前にいる相手に向いた。
吉祥寺も、かなり足下が落ち着いていた。一分と、試合中の守りに入った間の時間は、吉祥寺に十分ではないものの、最低限の回復の時間は与えてくれたということだ。
吉祥寺の目には、もう、あまり殺気というものは含まれていなかった。いや、葵というか、綾香に向ける吉祥寺の目は、殺気、というより怒気に近かったが、それがなりを潜めていた。
しかし、それでもなお、葵のことを、鋭く睨み付ける吉祥寺の眼光は衰える様子はなかった。怒気はなくとも、意地はある、そういう目だ。
ダメージが十分には回復していない、葵はそう読んだ。もっとも、葵も同じような状況なのだから、大した差にはならないのだが。
「それでは、エクストリーム、ナックルプリンセス予選、決勝戦、最終ラウンドを開始します!」
審判の声に、観客が沸く。今日最後の、最大の見所だ。盛り上がらない訳がない。
しかも、両方が両方とも、相手をKOすることで勝ち上がって来た、打撃格闘家。見栄えの良い試合になるのは必然だった。
しかし、そんなことは、今の葵には関係ない。いかにして、相手を倒し、勝ちをもぎ取るか、それしか、葵には考えられない。
「レディー……」
酷く、聞き慣れた合図だ、と葵は、ふいに思った。練習でも何度も聞いたが、それ以上に、今日何度も聞いた合図のように思える。
事実、既視感と言うには、聞き過ぎていた。そして、おそらくは、今日はもう聞くことのない合図でもあるはずだった。
試合は、もう止まれない。後はノンストップ、行くところまで行け。
身体の奥に残っているカスまで燃え尽きよとばかりに、葵の身体に火がつく。それは、心地よいを通り越して、気持ち悪いぐらいに、葵を高ぶらせた。
葵の腕に力が流れ、腕が持ち上がり、脚が動く。
何度も何度も、それこそ、靴の裏がすり切れるまで何度も続けた左半身の構えを、葵は取った。それが、合図だ。
「ファイトッ!」
続く