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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(8)

 

 ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ

 ふう、ふう、はあ、ふう

 ロープのきしむ音と、荒い息づかいだけが、閑散とした広い部屋にこだましていた。

 一流のアスリートでも、ここまでの施設を個人では持つことは不可能なのでは、と思えるほど、広さも、器具も充実していた。

 フィットネスが目的ではない、本気で身体を酷使するための施設だ。

 その中で、一人の少女が、サンドバックにしがみつくようにして、荒くなった息を整えていた。

 身体から流れる汗は、その綺麗な長い黒髪を、べったりとほほにはりつけている。余裕と自信にあふれた猫のような目も、今は閉じられていた。

 ふう、ふう……

 息が整うまで、ほんの十秒足らずであったろうか、彼女は、顔をあげた。

「……ラスト」

 とたん、彼女の身体が、宙を舞った。

 ズバシィィィィィィッ!!

 常識外の打撃音を立てて、重さは彼女の何倍もあろうかというサンドバックが、蹴り飛ばされ、間を置かずに、ズズンッ、と鈍い音を立てて、天井に叩き付けられた。

 とっ、という彼女の軽い着地音と、ズドドンッ、と重い音を立てて、勢いに耐えきれなくなってロープの切れたサンドバックが床の上に落ちる音が、同時に来る。

「うーん、やっぱ、鎖にするべきかなあ。でも、うるさいのよね」

 紙を一枚破り捨てた程度の感想を述べてから、床に落ちたサンドバックを、軽く睨む。

 飛び後ろ回し蹴り。横殴りに入ったその蹴りで、サンドバックは天井に当たり、さらにロープを引きちぎって、床の上に落ちたのだ。

 本当に人間なのかと疑いたくなるような蹴りを放った少女は、しかしこう見てみると、驚くほど可憐だった。

 引き締まった腰に、豊かな胸。すらりとした肢体は、ヒョウを思わせる。

 しかし、その中には、彼女すら制御しきれているのかどうかわからない怪物が住んでいる。それを、今彼女は身を持って体験していた。

「熱っ……」

 言葉とは裏腹に、彼女は寒さをしのぐように、両腕で自分の身体を抱きしめる。

 ガクガクと身体が震える。その身体に、火照った表情、潤んだ瞳、男が見れば、誰も彼も忘れて魅入るか、我を忘れて、欲情に駆られていただろう。

 彼女専用のこの部屋に、不埒者が現れることはないが、もしあったとしても、それはむしろ、その不埒者の方が災難だったであろう。

「熱い……よ……」

 彼女は、獲物を欲していた。

 誰でもいいから、目についた者を、何の気兼ねもなく、人を、喰らいたい。

 いくら身体を動かしても、少しも目減りする様子を見せないその劣情、いや、劣ってはいない、むしろ、生物として優れていたからこその情を、彼女は両腕で何とか押さえようとしていた。

 八重歯、いや、もうすでに牙と言っても過言ではないものが、カチカチと音を鳴らしていた。

「……ったく、変質者かっての、私は」

 自分らしい皮肉を口にしても、まったく引かない感情に、彼女は怒りさえ感じた。

 いけない、冷静に、冷静に。

 しかし、彼女の冴え渡った冷静さを持ってしても、それだからこそ、その欲求を満たすために、自分が何をしなくてはいけないのかを考えてしまい、彼女は、余計に苛立つ。

 でも、我慢できないのも事実。

「いっそのこと、浩之とエッチとかしたら……」

 柄にもないことを考えて、柄にもなく赤面するほど、彼女は珍しく混乱していた。

 彼女、来栖川綾香だからこそ、その欲望は、押さえきれないものとなっていたのだ。

 喰らいたいよ、駄目、表現が段々怪しくなってる。

 綾香の今の心情を、一言で表すのなら、それは「戦いたい」、その一言に尽きた。

 綾香は、もとから対戦相手には困っているのだ。エクストリーム以外の試合に出ることはないし、道場などにも通っていないので、切磋琢磨する、ということができない。

 しかし、それでも綾香は強い。自分がどうすれば強くなるか、相手のこういう動きにはどう対処すればいいのか、天才は習わずとも知っているのだ。よしんば、知らなかったとしても、調べて、知ってしまえば、それは身についたと同値だ。

 正直、予選を見に行ったのは、失敗だったかもしれない。

 綾香だって不満のない試合だった。浩之の戦い方も、負けたとは言え、十分綾香の希望にかなったものだった。葵の結果も、上々だった。

 しかし、だからこそ、綾香の中の怪物が、目を覚ましていた。

 物好きの枕将子をケンカを買って、KOしただけでは、到底収まる様子はなかった。こんな状態で、まだ二ヶ月以上ある本戦まで、待てる訳がない。

 そして、その言葉は、喰らいたい、となって、綾香の頭から漏れていたのだ。

 でも、今浩之の顔を見ると……やばっ、押さえ効かないかも。

 色々エロエロな想像だけなら、若い少女の暴走で済むだろうが、浩之は鎖骨にヒビが入っているし、今の自分では、浩之とそういうことをする前に、浩之を思う存分喰らってしまいそうだった。もう、言葉通り、浩之は骨の髄まで喰われるだろう。

 葵も、試合が終わったばかりで完調じゃないし……好恵は? ううん、でも、今の私相手に、三分持つかどうか……

 綾香ほど強くなると、相手の心配すらしなくてはいけないのだ。手加減できるコンディションならいい、しかし、手加減できないコンディション、というのが、綾香にもある。

 多分、生理が近い所為なんだろうけど……

 時期が、悪すぎた。綾香は女の子の時期のときは、非常に好戦的になってしまうのだ。普通は弱くなるらしいが、綾香を一般と当てはめる方が大きく間違っている。

 あんな血を沸き立たせるような試合と、生理的な理由、さすがの綾香も、この二つが同時に来たとき、自分を押さえきれなかったのだ。

 いや、正確に言えば、今だ押さえている。そして、このまま押さえきれるだろうが、しかし、綾香の冴えた頭は、むしろ、合理的に働いて、獲物を探していた。

 修治……あいつなら、壊れても問題ないか。それに、私を追いつめることができるぐらい、強い。相手としては申し分ない。

 それに、後にはさらに師匠の雄三が残っている。修治だけで殺しきれなかったこの思いを、ぶつけてもおつりが来るぐらいには、強いはずだ。

 道場破りとでも言えば、相手をしてくれるだろう。私の想像が間違っていないのなら、それはもう喜んで。

 合法的なやり方、というほど法を破っていないとは思わないのだが、を思いついて、怪物は、ふらり、と立ち上がった。

「そうね、やっぱり、我慢は良くないし」

 その、何気ない、声に何も含んでいないような、その姿は、むしろ、悪魔のように、不吉であった。

 

続く

 

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