距離にすれば、たかが数メートル。それは、綾香にとってみれば一瞬の距離だ。
構えも取っていない、この赤目という男を殴り倒すなど、造作もないことだ。
しかし、綾香は、赤目を攻撃するかわりに、その場から飛び退いていた。
攻撃は、来なかった。綾香が手を出さなかったというのもあるのだが、綾香自身が警戒して、念のために距離を取ったのが大きいのだろう。
「ふん……二人がかりってわけ?」
構えを取らない赤目と離れた場所に、いつの間にか一人の男が立っていた。そう、いつの間にか、だ。
気付いたからこそ、綾香は攻撃しなかったのだが、赤目が一人でいるのを確認するために、人気のない場所まで来たのだ。
そのときに、十分確認していた。自分を尾行しているのは、一人だと。
綾香に今まで気付かせなかったのは、十分、警戒に値する。もちろん、綾香は人の気配を読むとか、そういうもののプロフェッショナルであるわけではないが、それでも、即ゲリラになっても十分やっていけるだけの知覚力を持っているのは間違いないのだから。
「いや、誤解があるようなので言っておくと、私は手を出しませんよ。私は、いわゆる、コーディネーターという立場なのでね」
芝居がかった口調で言うと、赤目は後ろに下がる。と、同時に、綾香に気配を読ませなかった男が、前に出て来る。
それは、奇妙な格好をしていた。
服装は、身体にフィットするシャツやハーフパンツは、スポーツ選手のようであり、街中を歩くのならともかく、公園の近くをジョギングしている分には、目立たないだろう。
しかし、その顔は、覆面で覆われていた。鼻から上を多い、完全に人相を隠している。
その覆面の男は、無言で暗闇の中から、街灯の下へ出てくる。
黒い下地に、白で何か模様が描かれている。まるで覆面レスラーがするようなマスクを、その男は被って、平然としていた。
「何か、急に犯罪っぽくなったんだけど。話し合うんじゃなかったの?」
綾香はそれを見て、軽口を叩く。しかし、相手が顔を見せないというのは、それだけで、犯罪の臭いがする。赤目も、色眼鏡で変装していると言えないこともない。
しかし、綾香だって、百戦錬磨の怪物。犯罪者、もとい変質者の一人や二人に遅れを取るつもりはなかった。というのも、綾香に気配を読ませない変質者が、まだこの場にいるなどということは、まずないのだから、最大でも二人を相手すればいいだけなのだ。
……ま、変質者ってのは、格好はともかく、なさそうだけど。
変質者から、こんな鋭利な殺気は生まれないだろう、と綾香は思った。
赤目については、戦うつもりはさらさらないようだったが、この覆面の男は、そうではない。いや、もとより戦うつもりで、そこに立っている。覆面から見える目が、そう言っている。
まるで獣のような殺気。それは、たまに綾香が何の気なしに放つ種類のものに、酷似していた。こんな殺気を放つ変質者がいたとすれば、それこそ日本は終わりだろう。
変質者じゃなくても、物好きではあるみたいだしね。
構えは、まだ取っていない。まるで試合はまだ始まっていない、とでも言っているようにさえ見える。ここは単なる公園で、もしここで戦うのなら、それは試合ではなく、ケンカであるはずなのにだ。
「さて、それでは彼の紹介を」
赤目は、ニコニコしながら、覆面の後ろに隠れるようにしゃべりだす。
「ランキング第7位、クログモ。闇に張られた白い糸をイメージしたマスクをかぶり、立体的な戦いをする、売出し中の戦士」
芝居がかっている、というより、明らかに演出としての口調で、赤目は覆面の男を紹介する。
「対するは、言わずと知れた、高校の部、エクストリームチャンプ、来栖川綾香嬢! 彼女を弱いと思う者はいないでしょう。しか〜し!!」
綾香は、素早く視線をめぐらした。赤目のやり方は、明らかに誰かに見せるためのものだった。そうなれば、間違いなく、どこからか、撮影しているか、見ている者がいるはずだった。
見晴らしのいい公園、遠くのビルも、ここからならば見える。ここに来ることを予測されたとすれば、撮影も不可能ではないだろう。
しかし、そこまでして何故?
当然沸いてくる疑問も、綾香の中では、一瞬で氷解する。
「彼女の強さは、本物なのか。試合場の上だけの強さなのか、それとも、路上で戦っても、その強さには陰りさえ見えないのか。証明してみせましょう、スペシャルマッチ、来栖川綾香VSクログモッ!!」
来栖川綾香の名は、格闘家にとってみれば、自分が言うのも何だが、ビックネームだ。何せ、女子の知名度の高い格闘大会は少なく、かなり一所に偏る。
エクストリームで優勝しているということは、ほとんど無二のビックタイトルなのだ。
その知名度を目的とした人間を、今までまったく見て来なかったわけではない。むしろ、そういう相手への対応には、色々面倒なことがあった。
だが、困ることはない。何故なら、こういう手合いは、さっさと倒してしまうに限るのだ。拳を使っても、その他の方法を使ってもいいから。
それでも、まずは、拳に訴えるあたり、綾香の性格の悪さがうかがえよう。
こういう相手に乗ってやるのは、しゃくにさわるが、何、それならば、目の前にいる相手に、十分発散すればいいだけのこと。
「Here is a ballroom(ここが舞踏場)!!」
赤目が、静かな公園に響き渡るように、バカっぽく声を張り上げている。綾香は、思い切りバカにした目で見ていたが、意識は、赤目にではなく、その前に立つ、クログモと呼ばれた覆面の男に向いていた。
綾香の観察眼が訴えているのだ。この男は、強いと。
「Masquerade……Dance(踊れ)!!」
その言葉を待っていたかのように、クログモの身体が低く沈む。まるでバネを思わせるような、引き絞られた身体に、力が集まる。
ぴりっ、と綾香の身体に、電撃が走った。それは、綾香の身体の回路に、流れる。
意味もなく理由もなく必然さえなく、綾香は目の前の男を、敵と判断した。それは、綾香にとっては、むしろ一番相手を尊敬した言葉かもしれない。
相手がどういうつもりなのか、とりあえず、綾香は忘れることにした。
目の前に餌をぶら下げられた以上、飢えた獣を鎖でつないでおくことの方が、相手に失礼だ。
クログモは、身体にたまった力を一気に開放させて、跳ね飛び、綾香は、それを静かに、待ち構えた。
続く