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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(12)

 

 遠い、届かない。

 覆面を被った男、クログモが狙った一撃目に入るための踏み込みを見て、綾香はそう判断した。その拳は、綾香に到底届かない。

 反射と思考の差が、ほとんどないのが綾香の強みだ。だから、いきなり慣れていない攻撃をされても、とっさに対処できる。葵のように、何度も反復練習をして身につけなくとも、考えて動ける、というのは、むしろ卑怯とさえ言える。

 だから、綾香はすぐに思考し、答えを出した。

 動かなくとも、そのパンチは当たらないが、しかし、それならば、相手がそれに気付いていないと考えるのは、早計だ。

 これは、試合ではない。だから、多人数で襲おうが、武器を使おうが、止める者は、今のところいない。警察でも呼べば別だが。

 半袖のシャツでは、武器を隠す場所はないが、細いチェーンなどなら、手の中にでも隠せる。そして、それを顔面に当てれば、どんな人間だってひるむ。いわゆる暗器というやつだ。

 武器と、そしてまわりに綾香は警戒を絞る。

 油断さえしていなければ、エアガンの一撃だって避ける自信はあったし、暗器も、完璧に避ける自信があった。

 よ同時に、クログモと呼ばれる男の身のこなしが、少なくともそこらの素人ではないことも、理解していた。

 その理解から生まれた、ほんのわずかな警戒心が、綾香の頭を、後ろに逃がした。

 来るっ!

 それは、認識が先だったのか、知覚が先だったのか、わからないほど、ギリギリの感覚で、綾香は身体を後ろにスウェイさせていた。

 ヒュッ、と、クログモの拳が、さっきまで綾香の頭のあった位置で、空を切った。

 相手がどう動いた、というのを理解するよりも先に、綾香は驚異的なバランス感覚を使って、スウェイしたまま、反撃のミドルキックを放つ。

 もらった、と綾香は冷静に考えていた。いかに不安定な体勢だろうと、自分のミドルキックを直撃されれば、戦闘不能は避けられない。

 しかし、胴体を捉えるはずだった綾香のミドルキックは、あっさりとクログモに避けられるが、その程度で綾香が隙を見せるはずがなかった。

 綾香は、スウェイから身体を戻すと、また微動だにしない。動くのはそっちだ、と言わんばかりのふてぶてしさだった。

 しかし、綾香もさっきの攻撃には、けっこうあせったのだ。

 腕が伸びた、としか言い様のない動きで、相手の拳が顔面に迫ってきたのだ。武器や他からの遠距離攻撃を警戒して、両腕を防御に使わず、フリーにしていたために起きた危機だった。

 スウェイをして上体を後ろにそらしながらも、綾香はちゃんと相手の動きを見ていた。だから、何をやったのかも、おおよその検討はついていた。

 相手は、踏み込んできた位置から、足を動かしていなかった。普通に考えて一番ありうる、滑ってくるように前に出る動きではなかった。

 だったら、解答は一つだけだった。踏み込んできた脚とは反対の脚を、あげたのだ。

 やってみれば誰にでもできる、簡単な話だ。

 両足で普通に立って手を伸ばすのと、片足で立って手を伸ばすのでは、有効半径がかなり違う。バランスは悪くなるが、距離だけ見れば、片足の方が断然稼げる。

 しかし、言ったように、バランスは極端に悪くなる。威力も、勢いを殺さなければ、そんなに悪くなることはないが、引き手による威力増大は見込めなくなる。

 何より、さきほど綾香が最初に考えた、足をすべらせる手と同じで、防御が極端に弱くなる。何故なら、身体を引けないからだ。威力を殺さないために、勢いをそのまま身体に乗せてしまうと、後ろに引くなど不可能。

 だから、綾香は反射的にであっても、もらったと思ったのだ。そこから、後ろに逃げるなど、質量保存の法則を無視している。

 しかし、それも簡単に説明できる。

 クログモの横にあった、街灯だ。

 この男は、片脚をあげて、距離をかせぐと同時に、その足を街灯にひっかけたのだ。そして、その力で、身体を引き戻し、あたかも、物凄いリーチを誇るように見せかけたのだ。

 しかし、見せかけ、と言っても、確かに十分な威力を込めたまま、打撃の距離を伸ばせるのだ。驚異と言える。

 なるほど、こんなのが、エクストリームにいるとは思わないけどね。

 綾香は、確かにそれを凄いとは思った。足をひっかける、などという通常では考えつかない動きを、あそこまでよどみなくやれるのだから、かなり練習をしてきたのだろう。

 公園など、遮蔽物の多い箇所では、その真価は遺憾なく発揮できるだろう。

 しかし、綾香にしてみれば、それはトリッキーという言葉以上のものではなかった。所詮、変わった動きは、一度対処できてしまえば、そんなに怖いものではないからだ。

 それを考えると、一撃目を当てられなかった時点で、この手は綾香には無効となる。一度対処してしまえば、路上だろうが試合場だろうが、同じだ。

 赤目は、十分に距離を取って、二人の戦いを、嬉しそうに見ている。本当に手を出す気はないようだった。

 そして、まわりにも、他の人間の気配はない。綾香からも気配を消せるような人間が他にいて、綾香を狙っていたなら、もし狙うのなら、さっきの不意をつかれた一瞬、あれしかなかったはずだ。

 お膳立ては、十分だった。危険は、ない。

 それでも、ちゃんと保険をかけておいて、綾香はこきこきと腕を鳴らした。

「何か丁度いいことに、ちゃんとスパッツもはいてきてたりするのよねえ、これが何故か」

 我慢しきれない欲求を、もし誰かがからんできたら、思い切りはらしてやろうと考えていての選択であったのは、秘密だ。

 手にしていた小さなバックから、ウレタンナックルを取り出すと、バックはひょいとベンチの上に投げ捨てる。

 こんなもの持ち歩いている方がどうかしていると思うのだが、今の綾香に何を言ったところで、聞く耳など持たないだろう。

「そこの覆面男。私とやり合うからには、それなりの覚悟、できてるんでしょうね?」

 にこり、と綾香は怖いことを言いながら、ウレタンナックを手にはめる。実戦でウレタンナックルもないと思うが、相手も手には皮の手袋をしているのだ。問題はないだろう。

 綾香の言葉に、クロクモは、作ったような低い声で答えた。

「何を今更。それは先刻承知だ」

 声から、思ったよりも若いというのが綾香にもわかった。てっきり二十代中盤かと思ったが、声を聞く限りでは、まだ十代だろう。

 ま、どっちにしろ、楽しめるのなら、味わえるのなら、どうでもいいんだけど。

 綾香は、舌なめずりをすると、覆面の男を、やんわりと睨み付けた。

 

続く

 

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