ドガシィッ!!
はいった、綾香は、一瞬前までは、そう思ったのだ。
黒いマスクの男、クログモは、背中に腕をまわすような格好で、木にはりついていた。それは、彼一人のアドバンテージだったろう、そう、今までは。
綾香は、その経験したことのない戦いの、おそらく自信を持っているであろう相手の戦い方に、あっさり合わせたやったのだ。
木を駆け上っての、跳び蹴り。
クログモが綾香の意表を突いたように、綾香の追撃も、完全にクログモの意表を突いていた。
しかし、クログモは、それでも、例え多少不格好でも、綾香の蹴りを脚で受け、そのまま身体を上にはじくことによって、威力を殺したのだ。
まさか、あそこから受けられるなんて、ね。
その反動を利用して距離を取る綾香は、空中に浮いたまま、感心していた。
しかし、その感心が驚愕に変わるまで、時間はかからなかった。
上にはじかれたクログモは、腕を支点にして、くるりと回転、頭が下を向く格好で、木に「着地」した。
そして、空中を飛ぶ綾香の姿を、目で捉える。
やばいっ!
綾香の頭は、理屈抜きで、警告を鳴らしていた。
そして、同時に走る思考。宙に浮いた状態では、綾香と言えども、無防備に近い。そこを、このクログモなら、狙って来る。
クログモの脚に力がこもるのを、綾香ははっきりと見て取った。
まるで、水泳のターンを思わせる動きで、クログモは何の躊躇もなく、木の上から、綾香に向かって飛んだ。
さらに、宙で器用に体勢を変えながら、綾香に跳び蹴りを仕掛ける。
惰性で宙を飛ぶ綾香には、それを避ける術はなかった。
ドスッ!
鈍い音を立てて、クログモの跳び蹴りが、綾香の、ガードのない腹部に入った。頭部をガードしていた腕は、腹部までのガードには間に合わず、蹴りが入った後の脚に届いただけであった。
例えそれが人と人でも、慣性の法則は有効だ。二人の身体は、その跳び蹴りの威力で、宙で二つに分かれ、離れて地面に落ちる。
二人は、ほとんど同時に地面に落ち、そして、やはり同じように受け身を取る。足から落ちたからと言っても、そのまま着地すれば、足を痛める可能背もあるのだ。
公園の木の根っこを、うまく避けるように、二人は受け身を取った。
綾香の指が、ざりっ、と地面を掻く。まるで、一撃を受けたことを、悔しがっているかのような動きだった。いや、その前に、綾香と言えども、ガードなしで下腹部に跳び蹴りを受けたのだ。ダメージの方が問題のはずだ。
しかし、綾香は、クログモよりも、先に立ち上がった。それも、まるでこれからショーでも始まるかのように、ゆるりと、きらびやかに。
跳び蹴りを受けた、その事実は間違いないはずなのに、綾香は、目を細くして、嬉しそうに、微笑んでいた。
「何て言ったらいいのかな。そう、久しぶりな感覚ね」
ぱんぱんっ、と、クログモの足が当たった場所を、軽く片手で払う。そして、少しだけ顔をしかめた。昨日は雨だったのが災いしてか、綾香の下腹部には、くっきりと靴の型がついていた。
しかし、それも一瞬のこと、すぐに綾香は立ち上がらないクログモに向かって、口上を続ける。
「ほんと、久しぶりよ。直接打撃を受けたなんて、いつぐらいぶりだったか、私もすぐには思い出せないぐらいだもの」
それは、葵や坂下、浩之にも、最近は出来ていないことだ。綾香の記憶で、自分にちゃんとした打撃を当てた、一番近しいものは、あの修治なのだから。
いや、戦う機会が少なかったのもあるとは言え、ほんとうに、記憶にない。それほどに、綾香に拳を、足を当てられる人間というものは、少ないのだ。
「エクストリームにだって、三人しかいなかったのよ? それで、7位? 何、私を楽しませて、そんなに嬉しいの?」
おそらく、避けられる訳などない、と思っているボクシングのジャブだって、綾香には当たることなどないだろう。当たったとしても、そこにダメージはない。綾香にちゃんとした打撃を当てたからったら、それこそチャンピオンでも連れて来ることだ。
そう考えると、手加減していたとは言え、素人で綾香に打撃を当てた浩之の凄さというものがわかろうというものだが。
その手のことを綾香は考えながら、目的の方向に一瞥をくれると、綾香は大きく振りかぶった。手にしているのは、さっき地面を掻いたときに手にしていた、拳少ぐらいの、石。
遠投の要領で、綾香はその目標に向かって、石を投げた。
石は、暗闇の中を弧を描いて飛び、見事、目標に当たったようだった。
「よし、ナイスコントロール。メジャーからお呼びがかからないのが不思議なぐらいね」
乱闘要員としては、強すぎる気がするのだが。
綾香は、満足そうに言ってから、まだ立たないクログモの方に視線を戻す。てっきり、目を他に向けたら、即襲って来ると思ったのだが。
「思ったよりも、利口みたいね。脚のダメージが問題ないと判断しない限り、動かない、か。ま、別に誘いだったし、どっちでも一緒だったけど」
と、今度は、少し離れた場所で、ニヤニヤしながら観戦している赤い色眼鏡の男、赤目に目を向ける。
「悪いけど、こそこそのぞき見してるヤツは、ちょっとやらせてもらったわよ。もちろん、弁償はしないわよ。のぞきで訴えられなかっただけ、ありがたく思って欲しいわ」
「いえ、それはまったくかまいませんが。それより、今、この状況で相手から目をそらすなんて……いい性格してますね」
「そう?」
言われたからではないが、綾香はクログモを横目で見る。予想通り、おとなしく、脚を押さえたまま動かない。
誘い、だと言われているのに、向かって来る者もいまい。いや、その誘いという言葉すら、ただ相手に攻撃させないための技だとも考えられるだろう。クログモの中では、誘いか、それとも単なる口からのでまかせか、という考えがグルグル巡っていたことだろう。
綾香としては、単に、今の状況をはっきりさせる時間が欲しかっただけだ。だから、前半は誘いでも、後半は、単なるでまかせであったりもする。
「さ、ダメージもそんなに、ないんでしょ。そろそろ、立ち上がったら?」
綾香が両腕を開いて、クログモをせかすと、クログモは素直に立ち上がった。脚へのダメージは、ほとんどなさそうだ。まあ、それは綾香の腹部にも言える話なのだが。
そう、脚へのダメージ、だ。
一撃目の、跳び蹴りではない。あれは、うまく受けられ、衝撃を逃がされた。
クログモの脚にダメージを当てたのは、二撃目の、攻撃だった。
空中でクログモに狙われたとき、綾香はとっさに、頭部をかばっていた。跳び蹴りを頭部に受ければ、そのダメージだけでなく、着地に失敗する可能性もあり、非常に危険だったからだ。それに、最初は、クログモは綾香の頭を狙っていた。
そのガードを見て、クログモは宙で目標を、頭部から下腹部に変更したのだ。いや、最初から、頭部を狙うのはフェイントだったのかもしれない。
綾香のガードの間を割って入った跳び蹴りを、綾香には受ける時間がなかった。
だから、たたき壊そうとしたのだ。
宙に浮きながら、綾香は、腹部に入ってくる脚に向かって、肘を打ち下ろし、膝を蹴り上げたのだ。
肘と膝の、挟み殺し。
綾香が体勢十分のときに繰り出せば、胴体なら水月と裏水月に入り、相手の蹴り脚に入れば一撃で骨も折る。
ただ、とっさの動きだったので、いかな綾香と言えども、そう威力は出せなかったが、相手のダメージを殺すのには、十分な効果があった。後は、綾香の鍛え抜かれた身体が、ダメージを殺してくれる。
クログモも、その威力を察したのか、脚をずらした。だからこそ、ダメージは双方とも大したことはなかったのだ。
しかし、あのままお互いに、引かなかったのなら……
綾香は、それを思って、細い笑みを作った。
久しぶりに、本当の意味で、楽しめそうな、相手じゃない。
続く