どこから来るかわからない。クログモの攻撃は、そういう種類のものだった。
それは、綾香にとっても嘘ではない。クログモが隠れながら移動するのを、綾香は知覚できていなかった。
しかし、知覚はできずとも、予測はできる。
クログモが、何を思い、どう攻撃したいのか、手に取る、とまで言わずとも、おぼろげながらには、予測できる。
難しいのは、来るタイミング。しかも、来るとわかっている箇所を、事前に過剰に警戒することもできない。そんなことをすれば、クログモは簡単に攻撃してくる箇所を変えて来るだろう。
だから、綾香は動かないようでいて、めまぐるしく重心を移動させていた。クログモが、自分の隙が一番大きな部分を攻撃してくるのは予測できたのだから、同じ箇所で止まっていることは、付け込まれる隙を与えているようなものだからだ。
ギリギリで、受けることはできる。しかし、それでは完全にダメージを消すことができない。しかも、高いところから振りをつけて出される打撃の威力は高く、綾香は、久しぶりにまともなダメージを受けていた。
地上に立つよりも、遙かにクログモが体力を消耗しているのはわかるが、クログモの体力と、気力勝負をするというのも、いただけない話だ。
いや、もし体力対気力の勝負をしても、負ける気はない。負ける気はないが、あまり勝率の高い、だいたい八割を、超えることはないだろうし、何より、疲れる。
それよりも、よほど簡単な、そして綾香好みの戦い方が、ある。
クログモが視界から姿を消し、また移動を開始する。確かに、これを何度も繰り返されれば、綾香だって気が滅入ってくる。
クログモも、その有効性をわかっているのだろう。視界から消えた、と思っても、すぐには攻撃してこなかったり、他の箇所から姿を現したり、いきなり攻撃に転じたり、とバリエーションを見せて、綾香の気を緩めさせない。
しかし、この攻撃も、綾香はあっさりと封じる方法を、知っている。
クログモが視界から消えるのを綾香は確認した瞬間に、動いていた。
次の瞬間、攻撃されるかそうでないかは、この際問題ではないのだ。どうせ、クログモの攻撃は、綾香には当たらないのだから。
だから、クログモの攻撃があったのは、単なる偶然だ。
ビュンッ!
しかし、クログモの攻撃が空を切ったのは、綾香の思惑通りだった。
綾香が頭上を見上げた瞬間には、すでにクログモは、視界から逃げるように木の陰に隠れる瞬間だった。
だが、クログモの焦りを、綾香は確かに感じていた。
「多分、持久戦というか、体力と気力の勝負でもしようなんて、思ってたのかもしれないけど、おあいにく様、私も暇じゃないのよ」
そして、さらにそこを言葉で揺さぶる。姿は見えていなくとも、声は聞こえているはずだった。そして、綾香は隙を消すために動くどころか、重心の移動もしていなかった。
ぺたんっ、と綾香は地面に座っていた。誰がどう見ても、隙だらけだ。
しかし、それはクログモ相手には、絶対の防御だった。
正確には、絶対、ではない。しかし、クログモは、動揺しているはずだった。それこそ、誰もこんなことはしてこないはずだからだ。
予測と違う動きをされれば、戸惑う。見たこともないことをされれば、それだけで困惑するのだ。クログモが普通は相手に与える印象を、綾香は逆に与えていた。
「アントニオ猪木対モハメドアリとか、知ってる?」
返事はない。別に綾香だって期待していない。これは、あくまでクログモをゆらすための、技の一つだ。
完璧に自分の味を生かした状態のクログモに、綾香だって簡単に付け入る隙はない。しかし、綾香はこの歳でも、百戦錬磨、攻撃を与える以外にも、相手を揺さぶる方法など、いくつも心得ている。
「アントニオ猪木が、仰向けになって寝転んだのを、モハメドアリは攻略できなかった。ま、あれは、パンチで、しかも上半身しか攻撃できないボクシングにとっては、絶対に対応できない構えだったわけで、今回のこれとはちょっと違うけど」
綾香は、不適に笑った。
「でも、届かないでしょ?」
ただ、腰を落として座っているだけだ。実際の試合なら、隙も隙、倒してくれと言わんばかりの格好だし、ケンカではもっと危ないだろう。
しかし、綾香が立ち上がって攻撃するまでの時間で、綾香に近寄れる人間は、クログモ以外にはおらず、クログモにとって、綾香のいる地面に降りることは、鮫のいる海の中に入るようなものだ。
単純な打撃戦では、綾香には及ばない。立体的な、空上を使ってこそ、クログモは綾香と対等に戦えるのだ。
クログモは、確かに凄い。どういう身体の鍛え方をしたらそんな動きができるのか、というレベルだ。しかし、その能力は、限定的なものであり、綾香にしてみれば、簡単にその限定的な部分を無効にすることができるのだ。
遠く離れた木の上に、クログモは姿を現す。そして、綾香にも聞こえるように、息を荒げて、呼吸をしていた。
綾香が、すぐに動けない、しかしこちらからも攻撃できない体勢になったのなら、姿を現して、疲労の回復をしながら、次の手を考えた方がいいと思ったのだろう。
正解だとは思うが、綾香はそれを許さない。休憩など、させる気はなかった。だから、言葉で揺さぶる。
「モンスターが正体現したって感じね。終わりは、近い……」
綾香の言葉を待たずに、クログモは姿を消していた。
綾香が声で自分を揺らしてくることを予測して、反対にその間に攻撃に転じたのだ。
クログモには、それしかなかったし、そもそも、かなり勝算はあったはずだ。何故なら、綾香は言ったのだ、「届かないでしょ?」と。
綾香は、クログモの攻撃が届かないと理解している。しかし、それは間違いなのだ。クログモの攻撃は、届く。
そして、攻撃するなら、悠長に言葉でこちらを揺さぶろうとしているその瞬間しかない。
クログモの判断は、瞬間的にでも、冴えていた。
しかし、誤算は一つ。それ全てが、綾香に仕組まれた、罠。
綾香は、クログモが姿を消した瞬間、真上を見て腰をあげようとした。と同時に、クログモが姿を現して、綾香目掛けて落ちてくる。
真上から、一直線に、身体全身で距離を稼ぐだけではなく、木の枝さえしならせて下への距離をかせぐ。腰を落とした綾香にだって、届く距離を、クログモは落ちてくる。
予測通り、必殺を狙わなくてはいけないそのときに、威力の高い脚を下ではなく、木にかける方にして、戻りを速くしている。
綾香の誘いである可能性を、否定できなかった所為だろうが、それこそ、綾香の思惑通りだった。
クログモは、脚の力で軌道修正をしながら、一気に綾香に向かって落ちながら、拳を突き落とす。綾香も、クログモを狙って、立ち上がりながら、右拳を上に突き上げる。
落ちてくるクログモに対して、カウンターにも似た綾香の拳と、一直線に、稲妻のように落ちてきたクログモの拳が、交差した。
続く