「ラン、です。よろしく、お願いします」
どもるというよりは、一語一語確認するように、ランは言いながら、頭を下げた。
頭を下げるのは、別に嫌ではない。姉以外に頭を下げることを嫌がる仲間もいるが、自分には、そんなこだわりはない。
あまり気は進まなかったけれど、目線をあげて、自分の前に立っている人たちに視線を送る。そのまま下を向いているというのは、あまり良い印象を与えないと思ったからだ。
予想に反して、目があった数人の人たちは、視線をそらしもしなかったし、興味以外の感情を、読むことはできなかった。もっとも、人の気持ちなど、私にはわからないので、私がそう感じただけなのかもしれないけど。
「よし、自己紹介も済んだし、練習、始めるよ」
「「押忍っ!!」」
部員達の、元気で気合いの入った声が、道場に響いて、私は少し気押されてしまった。連帯感というものは、チームにも似ているけれど、やっぱり、それとは全然違う。
一糸乱れぬ、というほどそろってはいないけれど、ヨシエさんのかけ声で、部員全員がストレッチを始める。
思ったよりも男臭くないのは、女子の比率が多いからだろうが、それでも、汗の臭いが道場にこもっているような気がした。
それだけ、準備運動の段階だというのに、ここは活気にあふれている。和気藹々としていると言ってもいい。
チリチリと頭の奥が痛くなる。
自分は、どうもこういう雰囲気が昔から苦手だった。チームの、結束はあってもなれ合いのない、どこか殺伐とした雰囲気が漂っているのならまだ平気なのだが、楽しそうにおしゃべりをしながらストレッチをするのには、いたたまれない気持ちになってくる。
自分は、社会生活とかいうものに一生慣れないのだろう。
達観しているというより、意識がずれているのだと、自分でも思う。だから、姉についてレディースに入るのにも、大した理由もいらなかった。ただ、誘われた、それだけの理由だ。
でも、私はそこで、自分が初めて熱くなれるものに会った。
初めてチームに行ったその日、丁度起こった他のチームとのケンカで、殴られて、反撃に初めて人を蹴って、私は知った。
戦うことの喜びを、強いことの優越感を。
勝つことの、高鳴りを。
だから、それからは学校にも行かなくなった。もうかれこれ一ヶ月以上学校にはいかなかったはずである。
行かなかった、というのは、今日は久しぶりに学校に来たからだ。
「しかし、まさかランが同じ学校だったとはね」
見たところ、部員はいつものペアを組んでストレッチをしているようで、当然初めての私はあぶれ、それを見たヨシエさんが、私に近づいてくる。
「そら、ストレットするよ。怪我はしたくないだろ? 田辺、ランの相手してやってよ」
「はーい!」
見たことのある女子が、ヨシエさんに呼ばれて来る。多分、同じクラスだと思う。
「私、田辺って、同じクラスだし、知ってるか。よろしく、沢地さん」
言うほどのことでもないが、私の本名は沢地蘭。漢字で書くと何か偉そうなので、身分証明が必要なとき以外は、カタカナで書くことにしている。
「よろしく」
無愛想な私に、気を悪くした様子もなく、田辺さんは私の背中を押す。
「さ、ストレッチしよ。でないと、坂下先輩が怖いよ〜」
私は、素直にその言葉に従った。実際、ヨシエさんに教えてもらうために、わざわざ部活に入ったのだ。ヨシエさんと同じ学校だと聞いて、初めて、自分が高校に行っていて良かったと思った。
自慢ではないが、自分は身体が柔らかい。ヨシエさんの手助けがなくとも、あっさりと股割りができる。
「へえ、柔らかいんだ」
「うん」
私が短く答えると、田辺さんは苦笑したようだった。自分でも、取り付く島がない会話だと思う。それでも気を悪くした様子はないので、田辺さんはかなり人ができているのだろう。
田辺さんも、硬いわけではないけれど、私には及ばない。私は田辺さんと、念入りに柔軟を続ける。
「……長いですね」
「ん? ストレッチの時間?」
私はうなずく。身体をほぐすのなら、ストレットよりも動かした方が早そうな気がするのだが、かれこれ十分以上はしているだろう。私には長すぎる気がした。
「坂下先輩の方針だから。怪我を防ぐには、準備運動が一番なんだって。昔、陸上やってたから、けっこう実感できるけどね」
私には実感できない。ケンカは、だいたいいきなり始まるものだ。身体をほぐしている暇などない。それでも、ずっとストレッチを続けていると、血行が良くなったのか、身体が火照って来る感覚があった。息はあがっていないのに、身体だけが熱くなるというのは、不思議な感覚だが、不快ではない。
「よし、次〜、筋トレ!」
そう言うと、部員達は、やはり思い思いに腕立てをしたり腹筋をしたりしだす。てっきり、ヨシエさんの号令でもかかって、一緒に同じ回数だけすると思っていたので、驚きだった。
「沢地さん、どれぐらい腕立てできる?」
わからない、と私は答えた。筋トレはしていないわけではないけど、あまり根をつめてやったことはない。それよりも、ミットを蹴っている方が、ずっと良いと思っていたからだ。
田辺さんは、いきなり、私の二の腕をつかんだ。とっさに、私は身体がこわばるのを感じる。ケンカでは、私のようなトリッキー系はつかまれると弱いからだ。
「わー、ふにふにー。いいな、柔らかくって。筋トレで何が嫌かって、脂肪は落ちないのに、筋肉だけついてガチガチに硬くなることよね」
それは、私が腕を鍛えていない所為で、あまり良いことだとは思えなかったが、田辺さんは、素直にうらやましがっているようだ。
私の武器は、脚。腕はついているだけで、使ったことがない。初めてのケンカのときも、反射的に脚が出たのだから、それが自分には自然なのだろう。
「あのね、ここの部って、自分に合った運動の量をするから、とりあえず限界数を休憩入れながら、三セットすることになってるのよ。ちなみに、私は二十五回、凄いでしょ」
百回とか言われれば凄そうな気がするが、普通の数字に思えたので、私は首を横にふった。
「ええ! これでも、一年女子では二番目なのに」
笑いながら、大げさに驚いている田辺さんに、悪い印象は受けなかったけれど、それでも、やはりあまりこういう楽しい雰囲気に、私は合っていないのだろう。首を横にふったのは素で、その後の冗談に、何か言葉をつなげることも、笑うこともできない。
「じゃ、その自信のほど、見せてもらおうかな」
意地の悪い顔を作って、田辺さんが私をうながす。百回とは言えないだろうが、五十回ぐらいは無理をすればできるだろう。
手を抜いても良かったが、それでは練習にならないし、ヨシエさんに怒られる可能性さえある。私は、無理をしてでも、結果を出そうと、腕を床についた。
続く