「すみません、センパイ。怪我をしているのに来てもらって」
「気にしなくっていいって。俺も暇だしさ」
まだ鎖骨が完治していない浩之は、葵の練習ができるわけでもないのに、いつもの神社に来ていた。最近はずっと放課後になると神社で練習するか、道場に行く生活だったから、暇と感じたのは嘘ではない。
今日は、綾香も坂下も来ていない。坂下は部活もあるので、毎日来ているわけではないが、綾香に関して言えば、ほぼ毎日顔を出してくるのだが、今日はまだ来ていないようだ。
葵は、練習のできない浩之に手伝ってもらうわけにもいかず、一人でストレッチをしている。これが終わったら、ミット打ちだ。
浩之がここに来る前は、ずっと一人でやってきたのだ。今は綾香も坂下も来るので、葵が本当に一人で練習することはほとんどない。
浩之と二人だけ、というのも、それなりに珍しいのだが、それを寂しいと思うことはなかった。
むしろ、葵には嬉しいことだった。エクストリームの予選一位通過のご褒美だとさえ思える。
練習に邪念が入るのはいけないことだとはわかっていても、身体は正直だ。浩之と二人で過ごせる時間は、葵にとって何よりのご褒美だ。
駄目駄目、ちゃんと練習に集中しないと……
とは言え、ストレッチのように、息も切れないし、動きもない練習の間は、身体を動かして邪念を払うこともできずに、当然、視線は浩之の方に行く。
浩之は、手持ちぶさたなのか、脚だけのストレッチをしている。腕は動かすことはできないが、身体の局部だけに負荷のかかる練習は許されているそうだ。
端から見たらめんどくさそうに練習をしているだけなのだが、葵の目には、浩之の顔はまるで輝いているように見えた。
センパイ……
浩之の横顔を見ていると、葵の胸がきゅっとなる。
綾香と付き合っているのだろう、と葵は思っていたが、それでも、あきらめられるものではない。しかし、だからと言って正面から告白する勇気もなくて、結局葵は横顔を盗み見ることしかできない。
それでも、いい。と本心からとは言わないが、葵は思っていた。これでも、十分に幸せなことなのだ。願わくば、この時間が、もっと長く続いてくれることを……
いつもなら、綾香か坂下が来て終わる、葵の短い幸せな時間だった。しかし、今日は、二人とも来る気配はない。坂下はもっと遅くからでも来るが、綾香ならもう来ている時間だ。
今日は、このままセンパイと二人っきりで……
そう思うと、葵の胸はまた高鳴る。大した運動もしていないのに、もう動悸が速くなり、顔が赤くなっていく。
「……葵ちゃん?」
「は、はい、何ですか!」
自分の世界に入りそうになった葵は、浩之の声で呼び戻された。
「悪いけど、ちょっと客みたいだ」
浩之は、素早く立ち上がった。顔をいつになく引き締めている。その鋭い視線の先には、いつの間に現れたのか、一人の男がいた。
男との距離はまだ遠かったが、その特徴ははっきりとわかった。というより、一箇所だけ酷く目立つ部分があったからだ。
男は、鼻から上を隠す、プロレスラーがつけるようなマスクをしていた。
日はまだ高く、ここは人気はないとは言っても、学校すぐ近くの神社だ。変質者が出るにしては、明るい場所だった。
それよりも、浩之があっけに取られもせずに、警戒を強めたのを見て、葵も立ち上がって、軽く相手に向かって構える。
「お知り合いですか?」
浩之は、相手が何者なのか知っているような節があったので、葵は尋ねてみる。浩之の警戒する姿を見る限り、あまり仲が良さそうには見えはしなかったが。
「個人的な知り合いじゃないけどな。多分、俺に用事だ」
そのマスク自体も、また特徴的だった。目の部分もメッシュのようなもので覆われており、一番近いと言うなら、仮面ライダーみたいと言った方がいいだろうか。
背は浩之と同じぐらいだが、身体の厚みが、浩之とは比べものにならない。それも、脂肪と言うわけではなく、筋肉の厚みの違いだ。
「藤田浩之だな?」
「ああ」
男の質問に、浩之は素直に答えた。確認こそ取ってはいるが、すでに確認済みなのは、男の態度で十分わかった。
この男には、殺気が強すぎる。今適当な言葉を答えたら、すぐにも襲って来そうな気配がこの男にはあった。
しかし、少ししか話を聞かなかったとは言え、マスカレイドのことは聞いている。だから、浩之は先手を打った。
「残念ながら、俺は鎖骨の骨やっててな。俺を倒しても、意味ないぞ」
「関係ないね。それどころか、好都合だ」
「なっ……」
浩之は、とっさに身体を後ろにそらしていた。来ると思ったわけではなかった、単なる勘というものだった。
シュバッ!
男のストレートが、空を切る。明らかに、不意打ちだ。
「あんたが怪我してようが関係ないね。てか、ラッキー」
さらに、追撃のミドルキックが浩之を襲う。浩之は、受けるわけにもいかないので、後ろに下がってこれを避ける。
「くっ……」
しかし、激しい全身運動は、鎖骨にも響く。局部の筋トレとは違い、回避には全身を使わないといけないのだ。
「勝てばいいんだよ、勝てば!」
昨日襲ってきた相手は、むしろ話のわかる相手だったのを、浩之は理解させられた。そうだろう、街でケンカするようなヤツが、人間ができているとはとても思えない。
「エクストリーム予選三位、倒すにも、自慢するにも、手頃な相手じゃねえかよ!」
さらに追撃をしようとして来た男の動きが、止まる。
「ん、何だ、お前?」
葵が浩之をかばうように男の前をふさいでいた。ただし、かばうと言っても、葵は構えを取っている。
「女にゃ用はねえよ。それとも、こいつのかわりに、相手してくれるってか?」
マスクで隠れても隠しきれない男の下品な声を聞いて、葵は、怒りが自分の中で荒れ狂うのを感じた。
どういうつもりで、どういう理由で、浩之を狙ったのか、葵にはまだ理解できない。しかし、それが決して誉められる理由ではないことだけはわかった。
「エクストリーム予選一位、松原葵。これ以上センパイに手を出すというのなら、私が相手になります」
葵は、そう言うと、男を睨み付けた。
続く