「予選一位、ねえ」
仮面の上からでも、視線がわかるように、男はゆっくりと葵の身体を下から上へながめた。
「ま、発育はともかく、なかなかの上玉じゃねえか。よし、ケンカなんかやめて、一緒にいいとこいかねえか?」
葵の身体を見て、男はにやにやしながら言う。その態度から、決して葵の体型を見て、強さを判断したわけではないだろう。
きっ、と葵は男を睨み付ける。戦っているとき以外は、元気こそあれ、どちらかと言うと気が小さい葵にしては、珍しく怒りを顔に表していた。
「いいから、さっさとどこかに行って下さい!」
「つれねえなあ、何も取って食おうってわけじゃねえよ。俺だって、傷害ならともかく、婦女暴行でとっつかまる気はねえしなあ」
男は、構えを取らない。だからこそ、葵も手を出せない。いや、葵は、綾香や坂下とは違うのだ。ケンカを売られていると言っても、こちらから手を出すなどありえない。
「葵ちゃん、大丈夫、俺が相手するって」
「怪我をしているセンパイを戦わせるわけにはいきません!」
浩之は、前に立った葵を、後ろにかばおうとするが、葵はテコでも動きそうにない。
単純な試合なら、浩之が心配するようなことはない。しかし、相手はどう見てもケンカ屋で、葵の戦い方に合わせてくれるとはとても思えない。
「おーおー、臭いねえ。ドラマでもこんなやりとり見れねえよ」
男は、意識的に挑発しているのか、それとも最初からこういう性格なのか、二人を挑発する。いや、浩之は挑発されようと、葵がいる以上心配で怒ることはないが、葵はそういうわけにはいかない。
「ま、どっちでもいいや。どうせ両方倒すんだからよ。その後で、ちーとばかし、お楽しみがあっても悪くねえよなあ」
鎖骨がどうにかなっている以上、浩之の方は戦力外と見たのか、男は葵に向かって目を向ける。
「ブルマをつけたままってのも、オツそうだしなー」
葵の目が、ますます鋭くなる。基本的に、葵は真っ直ぐな性格をしており、人から恨まれるようなことはまずない。だからこそ、悪意に免疫がない。
こういう相手と、葵を戦わせてはいけない、と浩之は感じていた。素直な葵だからこそ、挑発や話術には、あまり免疫がない。うまくはまってしまうと、葵とて危険だ。
「葵ちゃん、下がって」
「……いいえ、私が戦います」
葵は、浩之を押し下げると、鋭い目つきで、男を睨み付けた。
「へえ、ほんとにお嬢ちゃんが来るのかよ? はは、女に守ってもらうたあ、カレシも役にたたねえなあ」
「……以上」
「ん?」
「それ以上センパイを悪く言うのなら、手加減しません」
大声こそあげなかったが、いつになく葵の声は低く、怒りを無理矢理身体の中に押さえているのが、ありありとわかる。
それを聞いた男は、しかし、ひるむどころか、爆笑した。
「ひー、かっこいいねえ、嬢ちゃん。胸は小せえのが残念だが、そんな気の強え女ってのは、俺の好みなんだよ。ちゃんと後からかわいがってやるよ」
プチンッ
葵は、自分の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。
「ああああっ!!」
葵は、真っ直ぐに男に向かって駆け出す。ほんのわずかな距離だ。葵にとって見れば、一瞬で縮められる距離。
葵は、腰溜めした拳を、突き出した。
パカァンッ!
「っ!!」
しかし、その拳は空を切り、男の手が、上から葵の頭を打ち抜いていた。
何が起こったのか理解できないまま、葵はその場に、ぺたんと尻もちをつく。
「葵ちゃん!」
浩之は、それを見て男に向かって駆ける。今は、鎖骨の心配などしていられない。それよりも、一刻も早く、葵を男の近くから遠ざけねばならない、と反射的に思った。
「はっ、遅え!」
しかし、男は、浩之の到着を待つことなく、尻もちをついた葵のあごを、思い切り蹴り上げる。葵の軽い身体が、大きく後ろに飛ぶ。
「葵ちゃんっ!!」
「おっと、顔はまじいな。後から楽しめねえもんなあ。ははっ!」
浩之は、慌てて葵に駆け寄る。男を許せない気持ちは大きかったが、それよりも葵のことだった。
さきほどの葵の攻撃は、あまりにも不用心だった。隙だらけだったと言っていい。
やはり、相手の話術に乗せられて、我を忘れたのだ。いかに鍛錬を積んでいても、怒りに我を忘れている場合、力は半減だ。パワーが出ても、正確な打撃も、緻密な作戦も望むべくもない。
「葵ちゃん、大丈夫かっ!」
「……はい」
浩之が駆け寄るよりも早く、葵は起きあがろうと動いていた。頭部に二発、強いのをくらって、脚はおぼつかないが、それでも立ち上がる。
浩之は、素早く葵に駆け寄った。この男は、もし一瞬でも浩之が遅れれば、追撃をしかねない。そんな危険な人間だ。
「おいおい、一人に対して二人がかりかよ、卑怯くせえなあ」
「くっ!」
浩之は、何とかその挑発によって生まれた怒りを抑える。ここで、自分まで怒ってしまっては、葵と同じ道を辿るだろう。
駆け寄った浩之の手を、葵はふりほどく。
「大丈夫です、さわらないでください」
「葵ちゃん……」
「あーら、さっそく破局か? もろいもんだねえ」
脚に来ているようで、葵の動きはあきらかに衰えている。しかし、それでも男の方に、ゆっくりと歩いていく。
葵の前進を、浩之は止められなかった。いや、止めなかったというのが正しい。
浩之の手をふりほどいたときに、一瞬葵は浩之に視線を送っていた。その目は、すでに怒りは消えていた。
その代わり、奥でいつもは姿を隠している闘志がじわりじわりとはい出している。
もう、葵は怒りに囚われていない。ならば、浩之が止めることはない。
葵は、相手が十分に打撃を打てる距離まで近づいてから、顔をあげた。
「あなたのような人は、私は大嫌いです」
「嫌い嫌いも好きのうちってな」
それでも軽薄そうににやけた口から出る言葉に、葵は反応しなかった。
「でも、怒って冷静な動きができなかった私に対してでも、打撃を当てたのは、事実です。あなたは、強いと思います。だから、私も、本気で戦います」
「あー?」
もう、葵は相手の言葉を待たなかった。
続く