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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(29)

 

 ズドンッ!

「っお!」

 男の身体が、一メートルも後ろに吹き飛ぶ。

「っか、アブねえ、アブねえ」

 ととんっ、と腰の入った下段突きの体勢のままの葵から、男は距離を取る。葵の不意打ちに近い下段突きは、両腕でがっちりとガードされてしまったようだった。

 しかし、男が態度とは裏腹に、不意をつけないほどに警戒していたのを葵はすでに理解していた。だから、単発の打撃が入るとは思っていない。

 今のは、押し殺しても、まだ殺しきれなかった怒りが繰り出させた一撃だ。

「へえー、一応、頭に二発ほど入ってると思うんだがなあ。元気なことだよ。ま、スピードは落ちちまってるみたいだがな」

 と言いながら、男は構えを取る。重心が後ろにあるが、綺麗な左半身の構えだった。

 葵の怒りは、まったく衰えていなかった。それどころか、この男の顔を見ているだけで、ふつふつと胸の奥から沸いてくる。しかも、男は嫌な声をこれ見よがしに葵に聞かせるのだ。

 でも、もう大丈夫。

 怒りの中でも冷静に見れば、男の動きが、決して格闘技として間違っているものではないのがわかる。葵は、それで完璧に調子を取り戻していた。

 そして、例え怒っていようとも、今まで身体にしみつかせた動きができないわけではないのだ。意識せずに動けるほど、葵は何度も何度も反復練習を繰り返してきたのだから。

「まだやる気なのか? 俺には勝てねえよ」

「……」

 男が、言葉とは裏腹に、葵の動きを警戒しながら等間隔に動いているのを、葵は見ていた。もう、それがわかるほどに葵は回復している。

 というより、怒りが、葵に痛みを忘れさせていた。

 確かに、葵は理性を無くしていた。それがこの男の作戦だというのも理解した上で、手加減とか、そういうものを全て捨て去っている。

 葵は、無言で前に出た。男は、それに合わせずに、距離を取る。

「弱ったヤツをいたぶるのは嫌いじゃねえけどな。そっちの情けないカレシに代わった方が無難だぜ」

 挑発、ではない。男は、今の葵と、鎖骨をやっている浩之、どちらと戦った方が勝ち易いかを考えて、浩之を選ぼうとしているのだ。

 作戦としては、正しいのかもしれない。でも、それは。

「……怖いですか?」

 葵は、自然にそう言っていた。

「……はあ?」

 男が、あっけに取られたような声をあげる。しかし、もう、それは葵の神経を逆撫ですることはあっても、葵を揺らせることはなかった。

「私が、怖いですか? 鎖骨にヒビが入っている、センパイ相手でないと、勝でないんですか?」

「そりゃ、簡単に勝てる方がいいけどな。どっちもどっちだろ。女と、鎖骨やってる男。強え俺にしてみりゃ、どっちでも同じだよ」

 男は軽薄そうな声を変化させずに答えるが、その時点で、男は揺れている。挑発のつもりなのかもしれないが、葵の言葉に、律儀に返事をしてしまっているのだ。

「あなたは、センパイと戦っても勝てません」

「ああ? 何だって?」

 葵は、きっぱりと言い放った。男のように、相手を挑発するためではない、心の底から、そう思ったのだ。

「素直に、あなたは強いと思います。今のセンパイでは、あなたには劣るかもしれません。でも、あなたが、センパイと戦えば、あなたは絶対に負けます」

 葵の実力をかいま見た瞬間に、標的を葵から浩之に変更しようとした。そんな人間に、強い人間がいるわけがない。いや、強かろうとも、勝てるわけがない。

「そして、あなたより、私は強いです」

 男が距離を取る間を与えない動きで、葵は男との距離をつめる。

「せいっ!」

 ババッ!

 葵のワンツーを、男は大げさな動きで避ける。まったく反撃の気がない動きだ。

「おい、待てって! 俺も女に暴力をふるうのなんて趣味じゃねえんだよ!」

 ビュハッ!

 葵は、言葉にハイキックで答える。男の言葉に耳を貸す気などなかった。そして、例え男が反撃しようと思っても反撃できないほど鋭いハイキックを、男は何とか避ける。

 冷静な葵なら、その言葉に止まっていたかもしれない。

 しかし、もう葵の理性はほとんど消えかかっているのだ。それに、何より。

 暴力、という言葉が、葵にアクセルを踏ませた。その一言は、この場面で言ってはいけなかったのだ。

 葵は格闘家だ。そして、格闘技は、少なくとも葵の目指すものは、暴力ではない。

 格闘家の果たし合いならば、それは格闘技だ。しかし、男は、今自分の行っていることを、暴力と定義した。

 男と女の違いがあろうと、戦うのなら、そんなものに差はない。力の差があろうとなかろうと、平等だ。しかし、男の暴力という言葉には、相手を蔑んだものがあった。

 葵には、それは、絶対に許せない。

 暴力に対して、格闘家の葵は、力で相対する。

 ビュシッ!

 葵のフェイントからのローキックが、浅くではあるが男の脚に入る。

 葵のことを怖がって逃げ腰の相手を、いつまでも逃がしておくほど、葵の技はぬるくない。

 いつもなら動きを阻害する気の弱い部分とか、そういうものまで、男の挑発は、葵から取り去ってしまった。

 怒りの中で冴えた感覚が、男の反撃の動きを感知する。

 ローキック、はフェイントの動きで右肘を打つ。そこから、右裏拳につなげる。

 ローキックを無視し、肘をスウェイで避け、裏拳を受ける。

 そう考えた訳ではないが、葵の身体はそう反応して、フェイントのローキックには反応さえせずに、肘をスウェイで避ける。

 そこから腕の戻りで打たれる裏拳を、相手の肘辺りを止めて受ける。葵の対応は、完璧だった。

 バシッ!

「ッ!」

 しかし、予測しない衝撃が、葵の眉間に走る。

 完璧に受け切ったタイミングだった。腕が伸びて関節が一つでも増えない限り、当たるはずのない場所に、打撃が当たっていた。

 横から見ていた浩之は、男が何をしたのかわかった。男は、事前に手に小さなボールのようなものを持っていたのだ。それを、裏拳と見せかけて、葵の顔面に投げつけたのだ。

 浩之の怒りが、今度こそ沸点に到達する。

「ハハッ!」

 男のうわずった声と共に、打ち込まれた左のハイキックを、葵は受けきれなかった。

 ズバシィッ!

 今度こそ、強い衝撃が、葵の頭を揺らす。

「うぜえんだよ、てめえっ!」

 ぐらっと揺れた葵だったが、その声に答えるように、右脚が、ぎっ、と地面を蹴った。

 葵の右の掌打が、下から打ち出される。しかし、ハイキックを受けた後の動きは、男にとってみれば緩慢なものだった。

 避けるには微妙な距離だったので、男はその掌打を腕で防御する。しかし、そういう慎重な態度を取ることこそ、男が葵を怖れていた証拠だった。

 男は、葵を怖れたが、それを認めず、さらに、怖れて慎重に行ったにも関わらず、葵は、それ以上だった。

 するり、と男の腕の間を、葵の掌打は抜けた。

 バシッ!

 葵の隠し技、相手の防御をすり抜ける掌打。

 男のあごが、上に飛ばされる。しかし、それは一撃で男を倒せるほどの威力は出せなかった。ハイキックを受けた後の一撃だ。完璧なものではない。

 しかし、その一撃は、男の予想を超えた。どうしてダメージが入ったのかわからずに、男の動きが、ほんの数瞬止まる。

 それで、葵には十分だった。

 葵の身体が半歩だけ前に出る時間。その半歩の時間を与えてしまった男の、負けだ。

 ぐんっ、と葵の身体が大きく動く。その小さい身体を、いっぱいに動かして、その動きから生まれる力が、一点に集中する。

 スパーーーーンッ!

 葵の右ストレートが、男のマスクに隠れた顔を、打ち抜いた。

 

続く

 

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