「ときに、浩之よ」
雄三は、倒れたままの修治をふみつけながら、浩之に話しかけてきた。どうして修治を踏んでいるのかは謎だ。
「は、はいっ」
さすがの浩之も、修治がボコボコにされてふみつけられている状況では、素直に答える。あまり上下関係など気にしない場所ではあるが、やはり怖い相手には礼儀を欠くと、自分の身が危ないと浩之は感じていた。
「お主は負けたそうだが」
「う……は、はい」
とうとう来たか、という話題だった。今日の今日まで、負けたことに関しては、雄三も修治も、あまりふれて来なかった。それを、浩之も不思議には思っていたが、せめて鎖骨が完全に治るまでは、放っておいて欲しかった。
五体満足でないと、危険な話題だ。怪我人に手加減してくれるのか、雄三も修治も微妙なのだ。悪化なら、全然良くはないが、もっと最悪、他の場所がいかれる可能性すらある。
「どうだ、くやしかったか?」
「は、はい。正直、まともに勝ったのは初めてだったので、欲は出ました」
もっとも、今まで負けて来たのは、浩之が悪い訳ではない。何せ、今まで格闘技の練習をした相手は、葵に坂下、綾香に修治、そして目の前で、綾香と同等のはずの修治をふみつけている雄三、ついでにセバスチャンだ。
まだ素人もいいところの浩之が勝てるような相手は、この中には含まれていない。
それでも、聞かれるまでもない。どれだけ、浩之が悔しかったことか。なるほど、浩之が負けた寺町は、強かった。結果的には、寺町は二位になったものの、素人が何か出来るような、半端なものではなかった。
それでも、綾香の前で泣くほど悔しかったのだ。あのときにこう打っておけば、このパンチにこう合わせておけば、いや、学校を休んでももっと鍛錬していれば、と、後から後から、後悔の念にかられる。
思い出した今ですら、手を強く握りしめてしまうのだ。鎖骨に多少の痛みが走るが、それすら気にならないほど、浩之は感情的になっていた。
「ふむ、このバカが遊んだことはともかく……」
ガシガシと、力は込めていないだろうが、雄三は修治をふみつける。
「あの、師匠、何で修治を踏んでいるんですか?」
ろくな答えは返っては来ないと知りつつも、浩之はたまりかねて、雄三に聞いてみた。いや、わかってはいるのだ、本気でろくな理由ではないことぐらい。
「最後の突きがかすったであろう?」
「え、ええ、まあ」
かすったのかどうか、音で浩之は判断したが、正直本当のところはどうなのかわからない。それほど、最後の修治の放った突きは速かったということだろう。
「そのはらいせに決まっておるだろう」
「……」
いや、かすったって、ねえ?
確かに、そう言うのなら、雄三への最後の攻撃はかすったのだろうし、よく見ると、雄三のほほに、かすかな傷が残っている。
しかし、直撃ではないどころか、雄三へのダメージはなかったはずだ。それどころか、修治はその後、肘、アッパー、頭から落とされる投げ、と連続技、多分何個もある奥義の一つ、を喰らわされたのだ。
大人げない。
雄三を一言で説明するなら、そうとしか言い様がない。普通、格闘技を修めた者は、むしろ穏和になると言うが、この老人、達人の域に達しているというのに、あまりにも大人げない。
そうは思ったものの、浩之も我が身が惜しい、つっこみはなしだ。
「まあ、修治のことはどうでもいいとしてだ」
たまに雄三の下の方で震えているように見えるので、もしかしたら意識はあるのかもしれない。しかし、立ち上がることも、怒鳴ることもできないのは間違いなさそうだ。
俺を恨まないでくれよ、修治。
浩之は、心の中で修治に手を合わせた。雄三は、それを合図にしたわけではないだろうが、話題を戻す。
「遊んだこいつはともかく、仮にも武原流の人間が、こともあろうに予選で負ける、とは、いささか見目が悪いものよの」
「は、はい」
さっきまでの悔しさは、浩之の中から綺麗さっぱり消えていた。今は、それよりもどうやってこの窮地を逃れるかを考えていた。
こういうときこそ、兄弟子として立ち上がってくればいいものを、とふみつけられた修治に目をやるが、まだ回復には時間がかかりそうだった。この後のことまで考えて、入念に雄三がとどめを刺したのではないか、と疑いたくなってくる。
「そこでだ、後一月もすれば、夏休みに入ると思うが……どうだ、みっちりと修行してみぬか? いや、強制ではないぞ。一度しかない高校二年の夏を、汗くさい格闘技でつぶす、というのは、あまりにも寂しい話だしのう」
ぼきぼき、と指を鳴らしながら、雄三がにこやかに浩之に語りかける。もちろん、強制する気バリバリのようだ。むしろ逃がさないつもりにしか見えない。
それを聞いて、踏みつけられている修治が、腕をあげた。
「……逃げろ……殺さ……」
ぐしゃっ、と音がして、修治は再度踏みつけられ、沈黙する。
「まったく、修治のやつ、演出過剰だのう」
にこやかに笑う雄三。しかし、目はさっぱり笑っていない。どう見ても、獲物を見る目だ。
「……」
逃げねば、いや、修治のために、俺だけでも助からねば。
すでに犠牲となった修治に目をやることなく、浩之はじりじりと、後退していた。確かに、強くなりたい。しかし、死にたくはない。
そう、まだまだ俺にはやり残したことがある。部屋に隠してあるグラビアも堪能していないし、吉村屋の特製カツ丼も食ってないし、まだまだ童……えーと、何かぱっとぱっとは思いつかないが、とりあえず死ぬのは嫌だ。
雄三が、とどめを刺したはずの修治を踏みつけているのは、何も大人げない気持ちからだけではない。修治なら、いつ復活してもおかしくないと警戒しているのだ。
つまり、修治を警戒している以上、俺を追うことはできないはずだ。うん、きっとそうだ、そうであって欲しい。
と、とりあえず、ほとぼりが冷めたころに来よう。
浩之がそう結論づけて、逃げようとしたその瞬間だった。雄三は、浩之にとっては、何があっても無視できない言葉を吐いた。
「来栖川のお嬢さんに、勝ちたくはないのか?」
それで、浩之の脚は止まった。逃げられる訳がない。浩之にとって、何と言おうとも、それは全てに優先される夢なのだ。
「……師匠、いくら何でも、綾香には勝てないでしょう。後十年やったって、勝てるとは思えませんよ」
それほどまでに、綾香は強い。修治と同等と、浩之は思っている。しかし、それでも、心の奥ではわかっていた。綾香は、修治より強い。
希望的観測とか、冷静な判断とか、そんなものを無視して、綾香は強く、修治では勝てないし、あるいは、いや、確信を持って、雄三でも、勝てない。
来栖川綾香、最強の、格闘少女。
その王女に勝つなど、口にするだけでさえ、不敬罪であろう。実現できない言葉よりも、言って苦しいことはない。
「いや、勝てる。違う、勝たねば、ならぬ。そうだろう?」
「……だから、無理……」
「無理ではない。わしのこの拳に賭けてもいい」
甘い甘言どころの騒ぎではない、まったく不可能で実現などありえない、荒唐無稽なおとぎ話だ。
それでも、浩之は、その言葉を、信じたかった。騙されるのは、正しそうなことを言ったからではない、聞いた者が、信じたいことを言ったからだ。
浩之は、それを信じたかった。だから、声をしぼって、言い切った。
「やってやるよ。綾香に、勝つために」
続く