大きな矢、いや、矢というには大きすぎる何か。
それが、控え室になっていたプレハブのドアをぶち抜き、その勢いを殺さぬまま、数メートル宙を飛んで、地面に着地した。
途切れることのない地面を揺らすような歓声の中、その何かは、のそりと上体をもたげた。
次の瞬間、その何か、いや、覆面をつけた男は、見栄を切るように、ガバッ、と跳ね起きる。
綾香の目測で、身長百九十センチ、体重百十キロ超。
肌も黒光りする、筋肉の塊のような男だった。下はハーフパンツで、上には何も着てしない。その身体には、所々に、何でついたのかわからないような傷跡が残っている。
綾香もエクストリームに出るぐらいだから、身体の大きな人間は多く見て来たが、それでもこの男は、今まで見てきた中で、一、二を争う身体だ。
男は、上から見下ろすように視界を動かし、金網の中、試合場にたたずむ綾香のところで、ぴたりと視線を止める。
派手な金色の覆面の下から覗く目が、明らかに失望したのを、良すぎる綾香の目は捉えていた。
失望したと言いたいのは、こちらの方だった。
クログモも、正面から撃破した綾香だ。あれで七位というのは、なかなか楽しめる話ではあったが、しかし、それよりも順位の低い相手など、綾香は望んでいない。
まずは、順位の低い方から、という赤目の気持ちも、わからないでもない。その方が盛り上がるのは確実なのだから、綾香がプロデュースしてもそうするだろう。
しかし、あくまで、挑戦するのは綾香ではなく、向こうなのだ。それなのに、これでは綾香が挑戦しているみたいではないか。
だいたい、どんなに身体を鍛えたところで、綾香の一撃は、その筋肉の間を抜ける。エクストリームでもそうなのだ。急所への攻撃の禁止されていないケンカでは、ねらえる急所の数が、格段に増える。
しかも、身体の大きな人間は、当然スピードは落ちる。綾香なら、捕まる前に相手の急所を打ち抜くなど、造作もない話だ。
もっとも、組んだところで、綾香の優位はかわらない。この小さいと言っても差し支えない身体は、力であの程度の大きさの人間に負けることはないのだ。
そんな綾香にしてみれば当たり前のことが、身体の大きな人間にはわからないのだ。エクストリームでも、身体の大きな選手は沢山いたが、いずれも瞬殺して来た自信が、綾香に常識外のことを当たり前と言わせる。
しかし、相手にしてみれば、あんな小さな少女に、この身体を持ってして負ける訳がない。そう考えているのが当然なのだ。
その結果、綾香も、相手のバリスタと呼ばれた巨漢も、完璧に相手のことをなめきっていた。普通なら、油断した方が負ける場面であるのにだ。
バリスタは、失望の色を隠し、鉄柵の向こうから少しでもさわろうと手を伸ばしてくる観客というより、ファンに近い人間に、サービスするように、ゆっくりと花道を歩いてくる。
試合場に近づけば近づくほど、バリスタの巨体は相手に伝わる。それを理解しているのか、見せつけるように、その巨躯を持って、ゆっくりと歩を進める。
しかし、綾香にはそれを恐れる感覚がない。大きさなど、一目で判断ついていたし、身体の大きさは、むしろ綾香にとっては強さの象徴どころか、カモなのだ。
バリスタが試合場に足を踏み入れると同時に、赤目が声を張り上げた。
「この試合が、マスカレイドに、新たな歴史の一ページを刻み込む!」
バリスタの入ってきた入り口から、赤目は試合場の外に出て、金網の扉を閉める。
それで、この無骨で危険な試合場に残されたのは、たった一組の男女となった。
「マスカレイドが新しい強さを証明できるのか! はたまた、強さはやはり普遍なのか!?」
見るまでもない。綾香はそう思っている。やるまでもない、決まっているのだ。
自分は、最強なのだから。
「エクストリームチャンピオン、来栖川綾香、VS、マスカレイド八位、バリスタ!!」
耳鳴りのするような叫び声と変わった歓声の中、綾香は、それでも静かに立っていた。目の前の巨躯の男を、恐れるどころか、気にした風もなく。
「Here is a ballroom(ここが舞踏場)!!」
「「「「「「「「「「ballroom!!!!」」」」」」」」」」
赤目の声に反応して、観客達が、叫ぶ。
どくんっ、と綾香の心臓が、一度大きく波打った。
色々といけすかないところのある、このマスカレイドだったが、これはいい、と綾香は素直に思った。
エクストリームで、レディー、の声がかかると同じような感覚が、綾香を襲っていた。別にそれでどうこうなるというわけではないが、綾香は、この気分の高揚が好きだった。
もっとも、問題があるとすれば……
この気持ちが沸いたときに、前にいる相手は、無条件で獲物だ、と思ってしまう、自分の押さえられない衝動も付いてくるという部分なのだが。
今は、それでもいいのだ。目の前の相手に、手加減する必要は、ほんの少しだって、ないのだから。
構えもない、しかし、綾香の身体は、すでに前に向かって動いていた。
「Masquerade……Dance(踊れ)!!」
その声の最後の響きよりも、綾香が風になる方が、はるかに速かった。
スパーーーーーーンッ!!
見ていた観客達でさえ、目で捉えることができない。綾香の拳が当たって、バリスタがその名の通り大きく飛んで、それでやっと動いた、と認識できる、そんなスピードだった。
がしゃんっ、と音を立てて、バリスタの身体が、試合場に張り巡らされた金網にぶつかって、ずるり、と地面に落ちる。
ガードも受けもない、どれも、まったく間に合わなかった。綾香の最高速度に近いストレートだ。それを試合開始の合図同時に受けたのだ。何かできるわけがない。
人の認識能力を超えたスピード。綾香なら、反応する自信はあったが、まさにそれは人外の力あってこそだ。
試合の合図よりも先に動いて、合図と同時に打撃を入れる。
普通の試合なら、おそらく反則を取られて終わるだろう。しかし、ここは試合とは言え、ケンカだ。それに、試合合図前に動いてはいけないなどと言われてはいない。
「ルール通り」、合図以降に攻撃したのだ。まさか文句を言う者もいまい。
しんっ、と観客はさっきまでの興奮はどこへ行ったのか、静まり返っていた。何が起こったのか、理解できないのだろう。瞬間移動のように綾香が動いたこともそうだが、それと同時に、綾香の何倍かありそうな巨躯の男が、あっさり吹き飛ばされたのだ。常識に当てはめて、理解ができなくなるのは、当たり前のことだ。
しかし、驚いているのは綾香だってそうだ。
そして、おそらくは、相手も驚いていることだろう。
金網の上をずり落ちたバリスタの身体が、ずるり、と動く。
おおっ、と観客達から、我を取り戻したような感嘆の声があがる。まさか、さっきの起こったことなのに観客ですら信じ切れない現象に、バリスタが耐えきるとは、思っていなかったのかもしれない。
綾香だって、そんなことは思っていなかった。
しかし、拳の感触は、確かに物語っている。まだ、相手は倒れない、と。綾香の予測通り、バリスタは、吹き飛んでも、まだ倒されてはいなかった。
「おおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!!」
雄叫びを上げながら、バリスタは、跳ね飛ぶように起きあがった。
続く