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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(40)

 

 綾香の、反射にも近い速度を誇る思考が、フルスピードで動く。

 左手首を大きな手でつかまれ、大きく動いて避けることはできない。二倍ほどもある大男の攻撃を、受け流すことなく、直接防御しなければいけないということだ。

 しかし、綾香は対応しようとしていた。どんな攻撃であろうとも、例え手首を捕まえられて、後ろに逃げようがなくとも、対応はできるはずなのだ。少なくとも、ダメージを最小限に抑えることは可能のはずだ。

 フェイントも何もないバリスタの左拳が、綾香の腹部に向かって伸びる。それを、綾香は片腕で受け流した。

 バシィッ!

 しかし、受け流したとは言え、手首を掴まれ、身動きのできない状態では、ダメージを流しきれない。それどころか、逃がせなかった勢いで、手首を中心に、綾香の身体が宙に浮く。

 バリスタは、左拳をひきつけることなく、宙に浮いた綾香に向かって、綾香の脇に肩を入れて来ようとしていた。

 それを、綾香は投げを狙っていると判断する。下は硬いコンクリートだ。決まれば、肋骨の一つや二つは、簡単に折れるだろう。

 綾香は、それに肘打ちで対応しようとする。

 入ってくるバリスタの脇に、狙いを定める。頑強であろう腹筋ではなく、筋肉の薄い脇腹ならば、カウンターとなる肘打ちを入れれば、こちらこそあばらを数本折れる。

 身体が宙にあろうとも、バリスタに掴まれている手首を支点にすれば、十分な威力をそこで稼げる。これを防ぐには、バリスタは手首を放すしか、手はない。

 その、はずだった。

 ヒュンッ!

 綾香の肘打ちが、風切り音をたてて、空を切った。

「!!」

 フェイント!!

 綾香の思考は、肘打ちが空を切ったのを、素早くそう判断した。

 肩は、最後まで入っては来なかった。フェイントのかかった綾香の肘が通過してから、しかし、その後も素早い動きで、腕を引きながらの裏拳が、綾香のほほに入る。

 まず……

 ガシイッ!!

 綾香の上体が、掴まれた左手首を中心にして、くの字にのぞける。

 ガードすら間に合わなかった綾香の顔面に、バリスタの裏拳が入っていた。

 しかし、それでもバリスタは綾香の手首から手を放さなかった。吹き飛ぶ綾香を無理矢理その場にとどめ、素早く腰を落とす。

 裏拳を受けた綾香に、バリスタのその動きに対応する術はなかった。いや、もし裏拳を受けていなくとも、手首を掴まれている綾香には、逃げ場所などなかっただろう。

 硬い地面にはじけるような音をたてて、バリスタの身体が、地を駆ける一本の石弓と化す。

 綾香のふくよかな胸に、それは当たった。しかし、それでも、勢いを少しでも殺せるものではなかった。

 ゴッ

 それは、タックル。相手を倒した後のことを考えるのではない。その身体を持って、相手をはね飛ばす、力まかせの、質量の打撃。

 何の小細工もない、真っ正面からの、体当たりだ。

 綾香の足が、完璧に宙に浮く。

 綾香の身体をとらえたバリスタの身体は、勢いを殺すことなく、その巨体が、どうしてそんなスピードが出せるのか、と思われる速度を保ったまま、綾香ごと、金網につっこんだ。

 グワシィアッ!!!!

 ……

 広がる、静寂。

 普通の金網ではない。車がぶつかったところで破れないのでは、と思うほどの太い金網が、綾香を挟んだままのバリスタの体当たりで、大きくへこむ。

 観客達も、声がなかった。さっきまで、華麗に宙を舞ってバリスタと戦っていた美少女が、金網とバリスタの間にあったのだ。その惨劇を見れば、彼女自身を見なくとも、どうなっているのか想像はついた。

 死んだのでは、と誰しもが思った。それほどに、異常とも言える一撃だった。

 ずっ、とバリスタは、へこんだ金網から、身体をどかす。

 綾香の身体が、バリスタと同時に、金網から外れる。

 あれを受けて動けるのか? と観客の誰しもが驚き、その恐怖にも似た疑問は、すぐに氷解した。

 バリスタは、綾香の手首を放していなかったのだ。だから、動けるバリスタに引きずられるように綾香は金網から引き抜かれ、それが証拠に、がくり、と両膝がアスファルトに落ちる。

 頭から額に、一筋の血が流れ落ちた。

 それでも、綾香が完全に倒れなかったのは、バリスタに手首を掴まれているせいだ。

 そう、誰しもが思った。

「……わね」

 地獄の底から響くような声が、歓声も、物音さえも消えたその無骨な金網の試合場に響く。

 落ちた膝が、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように、何の抵抗も見せずに動く。

 伏されていた目が、爛々と光りながら、頭上にあるバリスタに向けられた。

 バリスタは、しかし、躊躇しなかった。驚きに目を見張ってはいたが、誰よりも早く、状況を判断して、行動に移る。

 と、そのときになって初めて、立ち上がった綾香を狙おうとして振り上げようとした左腕が動かないのに気づく。

 今、目の前の血を流す少女から目を一瞬でもそらすのは危ない、そう感じてはいたが、バリスタは自分の左腕を見ずにはおれなかった。

 綾香の、細い指が、バリスタの手首にからまっていた。ウレタンナックルから見える指は、本当に細く長いのに、バリスタは、まるでそれが鋼鉄でできているのでは、と錯覚した。

 腕が、ピクリとも動かないのだ。下手をすれば鋼鉄さえ曲げる自分の腕力を持ってしても、綾香の指を外せる気がしない。

 バリスタは、驚きながらも、綾香に視線を戻す。綾香は、律儀にもバリスタがこちらを見るのを待っていたのか、噛み砕くように、一言一言、透き通るような、しかし底に響く声で、はっきりと言った。

「よくもまあ、ここまで、やってくれたわね」

 手ごたえは、十分だった。普通なら、金網どころか、当たった瞬間に相手に戦闘不能のダメージが入るほどの体当たりだった。

 しかし、その後に、追い討ちのように頑丈な金網でサンドしたにも関わらず、目の前の自分の半分ほどしかない少女は、下から、バリスタを見上げている。

「いいわよ」

「あ?」

「いいわよ、いいわよ、いいわよいいわよ、見せてあげようじゃない!!」

 ギュンッ、とバリスタの手首を持つ綾香の握力があがる。

 観客の疑問と恐怖は、結局氷解せずに、その場に、まったく疑問のまま、叫んだ。

 狂気にも似た狂喜を持って叫んでから、綾香は、ふっ、と力を抜いて、いつもと変わらない表情で、バリスタを見上げていた。さっきまでは、何かが憑いていたのでは、と思うほどの豹変ぶりだ。

 しかし、誤解しては駄目だ。それは憑いていたのではなく、今こそ、憑かれている、と言った方が正しいのだから。

「来栖川綾香、見せてあげる」

 綾香は、可憐な顔に、微笑みを湛えて、さえずった。

 

続く

 

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