バリスタは、何のためらいもなく、綾香の頭に、額を振り下ろした。
ゴカッ!!
つんっ、と血の臭いが、鼻を突いた。
な……
一瞬、バリスタの意識が朦朧とする。
お上品な試合では決して使われることのない、必殺の威力を持った打撃、頭突き。
そう、バリスタの狙ったのは、単なる頭突きだった。
しかし、例え両手両足が封じられていたとしても、頭突きは出すことができる。しかも、額は、身体の中でも非常に硬い部分だ。
それに、バリスタの腕力、この場合は腹筋と首の力だが、と上背による振りが入れば、文字通り、必殺と成りうる威力を発揮できる。
何より、公式の試合では、必ずと言っていいほど禁止されている技なので、実際に格闘技をやっている者は、頭突きをやられる経験というものが、ほとんどない。
だからこそ、バリスタの奥の手であり、何度も格闘家として完成されていた人間を屠って来たのだ。相手のひるむ一撃を入れることさえできれば、バリスタならば、どうとでも料理できるのだから、後は簡単な話だったのだ。
しかし、今ダメージを受けたのは、バリスタの方だった。
バリスタは、綾香の脳天に向かって額を落とそうとしたのだ。脳天の骨は薄く、下手をすれば死んでしまう危険さえある急所の一つだ。バリスタは、しかし、そこを狙うのを躊躇しなかった。躊躇して、勝てる相手だとは思わなかったのだ。
そして、結果、バリスタは額を打ち下ろすことができなかった。
振り下ろしている途中で、バリスタの鼻面に、綾香の頭が突き刺さったのだ。
身長的に言って、おかしな構図だ。綾香の身長は、バリスタと比べれば二十センチから三十センチほども違う。その綾香の頭が、バリスタの顔面に当たる。
朦朧としたバリスタにはわからなかったが、綾香は、バリスタの膝に脚をかけて、足場としていたのだ。足場を無くすために、バリスタは、近くに障害物のない場所にちゃんと動いていたのだが、綾香にとってみれば、バリスタ自身を足場とできるのだ。
カウンターぎみに入った綾香の頭突きは、いかに不死身を誇るバリスタでも、朦朧とするほどのダメージがあった。
そして、朦朧とした状態でも、バリスタは、まだ勝ちを目指していた。バリスタには、おとなしく負けを認めようなどという気持ちは、欠片もなかったのだ。
とは言え、自分の不利を、バリスタは十分に理解していた。何より、不死身を誇っていても、直撃を受け過ぎた。
いや、それすら恐るべきことなのだ。バリスタの反射神経を持ってすれば、ここまで相手の打撃を直接受けることなどないのだ。
それを、綾香は手首を掴んで逃げられないようにして、かつ、バリスタの予想を上回る動きで、バリスタが回避するのを封じている。
くそっ、相手も、条件は同じなはずだ!
身体が大きなものが、懐に飛び込まれるとそのリーチを持て余すのは、事実ある。しかし、ここまで一方的にはならないはずだ。何より、パワーでは勝っているはずなのだ。
バリスタは、それで、自分がどう動くべきかすぐに考え出した。
力は、バリスタの方が上のはずなのだ。確かに綾香の手を引きはがすことはできないが、少なくとも、綾香よりもバリスタの方が重い。これは目測とか、そんな甘いものではなく、間違いない事実だ。
相手を振り回すしかない。
何をそんな理にかなっていない攻撃を、と素人なら思うだろうが、しかし、バリスタの腕力と体重と、遮蔽物や壁の多いこのフィールドでは、それは思う以上に怖ろしい威力を発揮できるのだ。
バリスタの腕力ならば、五十キロ六十キロの人間なら、両腕をつかえば振り回せる。硬い金網や鉄のポール、鉄筋や土管に、お手軽に投げを打てるのだ。
コンクリートの上での投げ技が必殺に成りえるのと同じ理由で、バリスタの「振り回し」は、十分な威力を持つ。
「おおおおおおぉぉぉぉっ!!」
朦朧とする意識を何とかつなぐように咆えながら、バリスタは綾香を振り回そうと腕の筋肉に力を入れる。
一瞬、綾香の身体が浮き、がくんっ、とそのまま止まった。
動かない綾香に、観客達に、疑問符が浮かぶ。
観客達は、何度もバリスタの力任せの振り回しを見て来た。だから、その威力も十分理解しているし、物理的に考えて、綾香がバリスタの振り回しを回避する方法は、掴まれているのを外すしかないはずなのだ。
腰を落としてふんばっているなら、まだ多少は理解できるものだが、綾香は平気な顔で立ったまま、筋肉の盛り上がるバリスタの腕を見ている。
「おおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
いくらバリスタが叫んで力を込めても、やはり、綾香の身体は動かなかった。
「無駄よ」
綾香は、バリスタを切り捨てるように、微笑みながらも、冷たく言い切った。
その数瞬後、バリスタは綾香が何をやっているのか気付いた。綾香の足の指が、転がった大きな鉄筋にかかっていたのだ。
いかなるバリスタでも、手元から離れている鉄筋を腕の力だけで持ち上げることはできない。綾香の体重だけならば振り回せても、鉄筋に足の指をかけた綾香を振り回せない。
ことごとく、バリスタの技が封じられる。一手何かを行えば、さらにそれを一手上回って来る。まるで……
綾香の微笑みに、バリスタは、背筋に寒いものを感じた。
まるで、相手をいたぶるように。
それでも、負ける訳には、いかなかった。ここであきらめるほど、バリスタは勝ちにこだわっていない訳ではないのだ。
すでに少ない手の中から、バリスタは次の手を考える。その間にも、綾香は容赦なくバリスタの脚にローキックをたたき込むが、バリスタはそれを何とか受け流していた。
単純なキックの撃ち合いでは、必ず負ける。それだけ、綾香の蹴りが練られているからだ。
いや、打撃のほぼ全てで、綾香のスピードに負ける。ならば、手はおのずと決まる。
勝てる保証はなかった。もとより、このマスカレイドには、保証などどこにもないのだが、今度のやり方は、これは駄目だったから、次はそれ以外で行こうという、あまり誉められた戦略ではないのは確かだ。
それをわかっていても、バリスタはそれを選んだ。少しでも勝てる手を考えれば、結局行き着くのはそれだったからだ。
まだ、自分は見せていないのだ。
バリスタは、自分で言うのも何だが、オールマイティな格闘家だ。打撃も投げも使えるし、そして関節技も使える。
起死回生、入れば、バリスタの勝ちだ。
バリスタは、綾香との距離を限りなくゼロにしながら、綾香の右腕に、自分の右腕をまわす。
片方は掴まれているだけだが、やり方はいくらでもある。なめらかな動きで、バリスタは綾香の右腕を関節技で決めにかかった。
だから、その声が聞こえたときには、すでに手遅れだった。
「放したわね」
それは、まるでホラーのセリフだった。
バリスタの右手は、何かに当たって、綾香の右腕を掴むことができなかった。
まずい、手を、放して……
理ではなく、勘でそれを封じ込めていたバリスタは、しかし、それを最後まで貫き通すことを忘れていたのだ。
それ以外に手はなかったとは言え、手を、放すべきではなかった。
気付いたときには、綾香の身体が、バリスタの下に潜り込んでいた。
不思議な力にはね飛ばされ、バリスタの巨体が、あっさりと宙を舞う。
急激に変化する景色を見ながら、バリスタは自分が投げられたのを理解した。と同時に、しかし、だからこそ焦りはなかった。
バリスタは、このマスカレイド用に鍛えているのだ。コンクリートや鉄筋の上に投げられても、一撃では倒れない。
さらに、足を先に着くことによって、かなりの投げのダメージを軽減できることができる。工夫のない一本背負い程度では、倒れない自信があった。
むしろ、警戒すべきは、投げられた後だ。その攻防で、上に乗られるのはあまりよろしくない。もっとも、単純に乗られただけでは、体重差で十分どうとでもなる……
ガンッ!!
バリスタの意識に、無理矢理割り込むように、その音は響いた。が、バリスタには、その音の半分も耳には入っていなかった。
足よりも何よりも先に、バリスタの頭が、叩き付けられたのだ。
頑丈な金網を支える、それよりも頑丈なポールに、バリスタの頭は叩き付けられていた。
綾香は、コンクリートにも、転がる鉄筋にも投げる気はなかった。それよりも、経験で予測できるよりもかなり早い位置で叩き付け、バリスタに受け身を取らせなかったのだ。
さらに。
バリスタの身体がずり落ちるよりも早く。
「いやぁっ!!!」
グガシャーーーーーンッ!!!
気合いと共に、綾香はバリスタの頭に膝蹴りをたたき込んだ。
頑丈な金網全体が揺れるほどの衝撃が走り、バリスタがコンクリートの上に落ちて、動かなくなったのを見て、綾香は、やっとバリスタの手首から、手を放してやった。
続く