坂下は、不機嫌そうにファミレスのまずいコーヒーをずずずっ、とすすった。実際、安いだけが売りで、まったくおいしくない。
「まあ、考えてみれば当然の話だよなあ」
こちらは、半分以上あきれ顔の浩之が、そんな坂下につっこんだ。
「好恵さんの気持ち、私はわからない訳じゃないですけど」
葵まで、けど、という言葉がついている。
しかし、確かに坂下は、自分がそう言われても仕方のないことをやったという自覚があったので、反論はしなかった。
マスカの観戦は終わり、レイカ達は、ランを連れて帰っていった。ランが少なくないダメージを受けていたので、大事を取ったのだ。
ランには、色々と言ってやらないといけないことが、いいことであれ悪いことであれ、沢山があるが、それは部活でやればいいだけのことだ。
結局、坂下は、葵達に声をかけられるまで、二人の存在に全然気付かなかった。声をかけるタイミングを二人が逃していたのもあるのだが、その後の坂下がそれどころではなかったからというのもある。
あの赤いマスクの男、カリュウが、相手をあっさりと退けた後、坂下は、思わず手をあげてしまったのだ。
強い相手と戦いたいという、格闘バカの病気を、坂下だって自覚していない訳ではなかったが、そうやって、あまり常識的ではない行動を取るとは、自分でも思っていなかったのだ。
ケンカを売られるならともかく、こちらからケンカを売るとは。
誰かを助けるとか、因縁をつけられたとか、そういった理由ではけっこう簡単に戦いを挑む坂下、実際、綾香と白黒つけるために、葵と決闘してみたりと、案外、ケンカっ早いのは、今さら言うことではないのだが。
それでも、坂下の中では、ちゃんとした線引きがあってのことなのだ。感情的にはなれども、その点で言えば、坂下は冷静なのだ。
だからこそ、自分が手をあげて、カリュウに戦いを挑んだのに、一番驚いたのは坂下だったのかもしれない。確かに、手をあげた坂下は、自分から手をあげたにも関わらず、ほんの一瞬、自分の行動を疑った。
しかし、そこは坂下、すぐに気を取り直して、カリュウを睨み付けた。どうあれ、自分の取った行動に、坂下は疑問を挟むような人間ではなかったし、もともと、格闘バカという病気を、けっこうな重度として抱える坂下としては、カリュウと戦えるのなら、それでよいかとも思っていたからだ。
マスカのメンバーでもない、見たことのない、しゃしゃり出て来た坂下に、ファンの女の子達から、野次が飛んだが、坂下は、それを人にらみで黙らせた。そこらの女子高生と、怪物ではないにすれ、一般人では決してない坂下では、戦いにもならない。
それに、やはり、坂下は何かひっかかっていたのだ。それが、戦うことによって氷解するのを、坂下は望んでいた。
拳は、思う以上のものを伝えるのだ。ただ暴力に溺れているのでもない限り、戦ってみれば、理解できる、そう思ったのだ。
しかし、結局、坂下はカリュウと戦うことができなかった。マスカの選手ではないということで、止められるというのは予測していたことなのだが、どうも場を仕切っている様子のある赤いサングラスの男よりも、カリュウの反応の方が早かった。
坂下は、手をあげただけではなく、呼ばれもしないのに、試合場に出たのだ。しかし、カリュウは、坂下に一瞥をくれることもなく、背を向けて、観客の中に紛れてしまったのだ。
それは、坂下が止める間もない、素早い動きだった。人気はかなりあるのだろうから、いきなり観客の中に飛び込むというのはどうかと思うはずなのだが、カリュウは何の躊躇もなく、そしてあまりに素早かった所為で、観客達さえ反応できなかったのだ。
カリュウの姿が、観客の中に消え、数秒経ってから、坂下はやっと、カリュウに逃げられたことを理解した。
眼中になかった、訳ではないと思う。完璧ではないが、強い人間というのは、強い人間の匂いをかぎ分けることができる。坂下も、もちろんそれなりの自負もあるし、はっきり言ってしまえば、カリュウの今までの動きから見て、坂下が勝つ自信があったのだ。
であれば、やはり、逃げられたということだ。
戦いがメインとは言え、あれだけの人気を誇っているのなら、人気を無下に扱っている訳ではないだろうに、それすら気にしないほど一目散にだ。
逃げられたことに気付いて、さすがの坂下も、しばし呆然としてしまった。
「いや、すみませんねえ、お嬢さん。マスカの選手以外には挑戦権はないんですよ」
赤いサングラスの男は、にこやかに坂下に話しかけて来たが、それが明らかに単なる言葉のフォローであったのに気付かない坂下ではない。
多少打ち切りの感が残った試合だったが、赤いサングラスの男は気を取り直したように試合の終了を告げ、マスカの試合は終わった。
不完全燃焼も何も、火だねをちょっとだけつけられて、逃げられたようなものだ。坂下としては、心外なことこの上なかった。今不機嫌なのは、自分の行為がどう見えるという部分ではなく、結局逃げられたことが大きいのだ。
「一応、試合ってことにはなってるけどさ、結局、ケンカだろ? 坂下が出張る必要もないんじゃないのか?」
口ではどうこう言いながらも、浩之は坂下のフォローをしようとしていた。
さすがに、その程度のフォローで坂下の機嫌が治る訳はない。ぶすっとしたまま、坂下は、何の気なしに言う。
「ケンカって、綾香は出てたわよ」
「……はあ?」
「え?」
ここで思わない人物の名前が出たので、浩之も葵も一瞬、何のことか、と考えて、しかし、数瞬後には、酷く腑に落ちた顔をした。
エクストリームチャンプとは言え、坂下と比べても、綾香のケンカっ早さと非常識さを、この二人は十分理解させられている。
「まあ、綾香さんなら……」
「しかし、綾香が、あんなばかっぽくマスクなんかかぶるか?」
「私が見た映像では、そのまま出てたわよ。本人の了承がなかったみたいで、すぐにカメラ壊したみたいだけどね」
何というか、説明の短い、まったく事足りない説明だった。しかし、その風景が、現実と違うことはあろうが、少なくとも簡単に二人には想像できた。
身のほども知らずに綾香に戦いを挑む人間、ボコボコにされる相手、割れるカメラ、というかカメラマンも無事では済むまい。
「……し、死人が出てないようだから、良しとするか」
「そ、そうですね。カメラぐらい、五体満足なことと比べたら、一つや二つ……」
二人の引きつった笑みを見ながら、坂下もそれについては同意見だ。果たして、あの後相手は負けるのはともかく、無事だったのかどうかは謎なのだし。
「ま、綾香の戦いを見て、私らしくもなく、興味が沸いてたのは認めるよ」
そもそも、もし異種格闘技をしたいのなら、エクストリームに出れば良かったのだ。いくら昔に、坂下の一方的な、綾香との確執があったとは言え、それでも、最後のところで自分に素直になる術ぐらい坂下は知っている。
それでも、坂下は選ばなかった。ふりかかる火の粉は叩き潰してもいいだろうが、自分からわざわざ火花を飛び散らせる必要を感じないのは確かだ。
「まだまだ、私も修行が足りないみたいだね」
精神修行不足、と坂下が結論づけようとしたときだった。浩之の視線が、多少鋭いものになって、ファミレスの入り口に向かったのに、坂下は気付いた。
「藤田?」
「……なあ、あれって、誰に用事があるんだと思うか?」
坂下が入り口を振り向く、とそこにいた人物は、坂下を見て、にこやかに笑った。作り物めいた、信用のおけない笑いだ、と坂下は素直に思った。
つかつかと坂下達に向かって、その赤いサングラスの男は近づいてくる。
「いや、探しましたよ」
マスカレイド、自称プロデューサー、人々から赤目と呼ばれるその男の正体を知っていた訳ではないのだが、坂下は、そのにこやかに笑う男を、睨み付けた。
続く