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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(55)

 

 ムサシの右の木刀が、坂下の首を、切り裂いた。

 シュバッ!!

 激しい擦過音と共に、赤いものが宙に舞った。

「坂下っ!」

 浩之は、その驚愕の光景に、我を忘れて叫んでいた。坂下は、自分が心配する必要のない強者であることはわかっていたにも関わらずだ。

 血をまき散らしながら、坂下の身体が回転して、そのまま片膝をつく。

 坂下の首には、ざっくりと傷が入り、そこから血が流れ出しているのだ。

 それを行った張本人であるムサシは、その右の木刀の勢いにつられるように同じく回転して、たたらを踏んでから、体勢を立て直した。

 追撃の必要などない、と思える光景だった。坂下の首からは、血が流れている。そのまま放っておけば、命に関わるのでは、と浩之は思って、思わず坂下に駆け寄ろうとした。

 浩之の足を止めたのは、片膝をつき、首から血を流した鬼のような坂下の形相だった。

 ムサシも驚く中、坂下はすぐに立ち上がっていた。

 それを見たムサシは、すでに追撃のタイミングは逃したと判断したのか、慌てて距離を取ると、落とされた左の木刀を拾う。

 誰よりも、今の現状をわかっているとでも言わんばかりに、坂下は、首の傷に手をあてて、そしてその手についた血をぴっ、と払った。

「坂下……」

「皮一枚削られただけだよ」

 こちらが死にそうなのでは、という浩之の声にも、坂下は素でそう答えただけだった。

 見ていた浩之などは、取り乱しているようだが、実際、坂下は、首の皮を多少削られただけだ。命に別状もないし、出血が問題になるほど深くもない。

 血の一つや二つで今更騒ぐような坂下ではない。首を削られたのは初めてだが、派手な出血に見えて、それが大したことのないことを坂下はわかっていた。

 それよりも、ムサシのやったことに関して、坂下は感心していたのだ。

 坂下は、相手のリーチを見切ったことに関しては、自信があった。しかし、それでも首を削られるという失態を犯したのは、ムサシの技の所為だ。

 種をあかせば簡単なこと。ムサシの持つ二本の木刀は、実は長さが違うのだ。右の方が少しばかりだが、長いのだ。

 しかし、それを、わざと短く持ち、あたかも二本とも同じ長さであるように見せかけた。それに、まんまと坂下がひっかかったのだ。

 二本刀であることで、相手が同じ長さの木刀を使うという意味にはならないのだが、最初の一撃で坂下はそう判断してしまった。

 さらに、ムサシは右を身体で隠すようにして、見せないようにしていた。それに意味を見出せば、避けられたかもしれない一撃だった。

 武器持ちだからとか、そういうものを考えないでも、この男は強い。

 坂下は、雰囲気で判断するのではなく、ムサシの実際の強さを見て、それを判断した。そして、強い相手と戦うのは、坂下にとって本望だった。

 まあ、多少問題があるとすれば、今の坂下と夜道で会えば、必ず相手が逃げそうなぐらい坂下の表情が怖いということぐらいだ。

 相手の強さは認めたが、それで不覚を取った自分を許せる訳ではない。負けたのなら、まだ納得もするが、その不意を突かれたにも関わらず、まだ坂下は倒れていないのだ。

 勝てる相手、いや、負けない相手に、不覚を取ったなど、坂下にとってみれば、自責をするには十分な理由だ。

 そして、その理不尽ではない怒りは、酷い話だが、理不尽にも相手に向けられるのだ。

 首を切りつけて、出血もしたのに、まったく衰えることのない坂下の闘気に、ムサシが気押されているのが、浩之にでもわかった。

 そりゃ、怖いよなあ。

 首から血を流しながら、形相を向けられれば、誰であろうともひるむだろう。

 何より、これが重要なのだが、おそらくは、必殺の技であったものを、ギリギリでも避けられたのはかなり痛いはずだ。

 ムサシは、マスクの上からも出る表情を消し、ぐいと遠くから腰を落とした。

 左半身の構えから、両腕を右胸に引きつけるようにした格好で、両の木刀の先を坂下に向ける。

 左足を一歩大きく前に出した状態で、さらにそこから腰を前にかがめる。まるで、矢を限界まで引き絞った弓のようだった。

 この一撃で、決めに来る。浩之にもそれがわかったのだから、坂下にわからない訳がない。

 おそらくは、飛び込む勢いを入れた、突きだ。

 最長の距離を、最短の時間で詰めるための異常な構えだ。木刀の突きが入れば、もうそれは刃物だとかそんなものは関係なく、相手の身体を破壊しうる。

 対する坂下は、半身のまま、いつもの構えを取っただけだった。一つ普通との違いがあるとすれば、拳が開いていることぐらいか。

 坂下が、どういうつもりでその構えを取っているのか、浩之にもわからない。ムサシにもおそらくは分かるまい。その恐怖が、攻撃を敢行するはずのムサシにもひしひしと伝わっているはずだ。

 それでも、ムサシは意を決し、その身体は、弓から放たれるように、坂下に向かって飛び出した。突き出されるは、左の木刀。

 坂下も、同じタイミングで、一歩前に出る。

 しかし、その間合いは、あまりにも遠い。ムサシのリーチと坂下の一歩を足しても、届かない距離だ。

 と、浩之が判断した瞬間に、ムサシの左の木刀が、ぐんっ、と伸びた。

 何が、と思う間もなく、伸びた木刀が、今度こそ坂下の首を狙って、突き出される。

 カッ、と乾いた音をたてて、その木刀が、坂下の円を描いた右の手に、受け流された。

 直進に向かってくるものは、横の動きに弱い。大した力を入れることもなく、簡単に進行方向を変えることができるのだ。そしてそれは、例え素手でも木刀でも同じだった。

 ウレタンナックルだけをはめていた坂下の手は、それをあっさりとこなして見せた。

 左の木刀は、あっさりとそれではじかれ、宙を飛ぶ。まるで、何も支えがなかったのように、軽く。

 その瞬間には、ムサシはさらに一歩踏み込み、その後を狙うように、同じ場所を狙って、右の木刀を突いていた。

 左から右の木刀の動きは、まるで一本の長い剣のように、まったく時間差がなかった。

 そう、ムサシは、左で突くと見せかけて、左の木刀の柄の先を、右の木刀で突いていたのだ。こうやって木刀二本の距離を稼ぎ、坂下に先制の攻撃を入れる。

 さらに言えば、その一撃を坂下なら避けるか受けると判断していたということだ。どちらにしろ、坂下は防御を取らなくてはならない。そのわずかな時間を狙って、本命の右を突き出す。

 受けたことによって、坂下の位置は変わらなかった。だからこそ、ムサシの狙う場所も、変化しなかったのだ。ムサシは、後は渾身のスピードを込めて、突き込めばいいだけだった。

 シュカッ!

 首を切られた音よりは、よほど小さな音を立てて、ムサシの右の木刀は、坂下の円を描く左手に、受け流された。

 器用に、木刀の二本をつなげたムサシの攻撃を、坂下は、真っ正面から「受けて」立ったのだ。

 しかし、それでもムサシの動きは止まらない。そのまま、受けられた右側を走り抜けるようにしながら、横の胴薙ぎを狙う。

 異色の二本刀とは言え、その動きによどみはなかった。

 だから、横をすり抜けようとする動きだって、かなり素早いものであった。ムサシは、何も悪くはない。

 パシィ!

 坂下の掌が、横を切り抜けようとしたムサシの木刀を握った拳を、受け止めていた。

 息がかかるほど接近し、動きの止まった二人の視線が、一瞬からまる。

 前進の力を全て込めたはずの動きが、坂下の片手の動きであっさりと止められたとき、ムサシはさすがに頭の中が混乱していた。

 何より、ムサシには、坂下のその目が、何故か酷く怖かった。

 しかし、それも数瞬で終わった。

 腰を回転させて繰り出された坂下の肘が、ムサシのあごを、切り裂けろとばかりに、真横に薙いだ。

 首から上が九十度にも満たない浅い角度で回転し、戻ったと同時に、ムサシの身体が、地面に吸い込まれるように、下に落ちた。

「ふっ!」

 短い息吹を吐いて、坂下は残心、ぴくりとも動かないムサシを上から見下ろした。

「conclusion(決着)!!」

 赤目の声が、薄暗い屋上に響いた。

 

続く

 

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