「わっ、沢地さん、どうしたの?」
あごにガーゼを貼り付けて登校してきた私に、田辺さんが驚いて話しかけて来た。
「ちょっと」
私は、言葉を濁して、自分の席につく。
私の席は、教室の一番後ろの端だ。登校拒否児であった私だから、席などどこにあろうと関係ないのだが。
「怪我したの?」
ついこの間まで、ほとんど面識のなかった田辺さんだが、空手部で知り合って、普通に話ができるようになった。空手部の人間や、田辺さんの友人も含めると、驚くことに、私は普通に高校生活を送っているほどは人と会話できていた。
「怪我は大したことないけど、あざになってるから」
ブラインドにアッパーを入れられた部分に、見事に青あざができている。痛みなど、いつものことだが、いかな私でも、そのまま学校に来ようとは思わなかった。もっとも、あごにガーゼというのも、けっこう目立つのだが。
「何、何? もしかして坂下先輩に特訓受けたとか?」
「ううん、違う相手」
私は、答えてからしまった、と思った。マスカのことは当然として、私がケンカをしているのは、言うべきではない、と思っていたのだ。
「へ? まさか、ケンカでもしてきたの? 駄目だよ、女の子なんだから、顔に傷がつくようなことしたら」
冗談として笑うか、驚くか。私はそう思ったのだが、田辺さんは、あっさりと私の言葉を鵜呑みにしてきた。
「ケンカじゃなくて、試合をしてきたの」
嘘では、半分ぐらいない。マスカはケンカに近いが、一応試合という体系を取っているので、完全な嘘ではないだろう。私とて、すでに友人、と言っていい相手に、嘘をつくのに良心が痛まないわけではないのだ。
「ええ? あ、うん、そうか」
それを聞いたときの田辺さんの方が、むしろ驚いたように見えた。
「?」
田辺さんの反応に、私がいぶかしげな顔をすると、田辺さんは、あはは、と苦笑するように笑ってから、手をひらひらさせた。
「ごめんごめん。ほら、沢地さん、坂下先輩の肝いりで入って来たじゃない」
私自身には、そんな気持ちはないのだが、どうも私はそう見られているらしい。確かに、私としては、ヨシエさんを師匠と仰ぐ気持ちがあるのだが、ヨシエさんがどう思っているのかは、いまいちわからない。
「坂下先輩って、そりゃ弱い者をいたぶって楽しむタイプじゃないけど、鬼なのは間違いないから、ケンカ売ってくる相手には容赦しないのよねえ。それで逆恨みとかされてるから、けっこうケンカっぽいことはしてるみたいだし。その関係で、沢地さんと知り合ったのかなあ、なんて勝手に想像したのよ」
けっこう外れていない想像なのが怖い。しかし、鬼と呼ばれるヨシエさんだが、自分からケンカを売ったりしないと、田辺さんは認識しているようだけど、最初のとき、かなりケンカっぱやかったような気がする。もちろん、こちらがかなり非常識だったから、というのもあるのだろうとは思うけど。
「確かに、ヨシエさんに一度負けてるけど」
「やっぱり? あ、沢地さんがどうとかじゃないのよ? ただ、坂下先輩のことだから、やっぱ自分と戦った相手じゃないと、わざわざ連れてなんか来ないだろうなって」
それも、やっぱり正しいような気もする。多分、ヨシエさんはそういう人だろう。
「てか、田辺もさあ、いきなりケンカが出るってのは、危ないんじゃない?」
「ま、うちの空手部って、不良でも道を譲るって言うしね」
「ちょっと、坂下先輩みたいな人はいるけど、私なんか一般人よ〜」
クラスの仲の良い友人達が、きゃいきゃいと笑い出す。
言われている内容は、それは平和なものではないけれど、それでも、ヨシエさんが慕われているのは、肌で感じた。
慕っている一人としては、ちょっと嬉しい光景だった。まあ、あれだけ強くてかっこいいヨシエさんだ、ファンの一人ぐらいいてもおかしくないだろう。
「でも、その様子だと、試合負けちゃったの?」
ふいに、田辺さんがそんなことを私に聞いた。だから、私は簡潔にそれに答えた。
「ちゃんと勝ったわ」
そう、それは私にとって、非常に大きな内容だった。
チャイムが鳴り、みんなはすぐに席に戻ったけれども、ホームルーム中も、私の考えることはそのことだった。
ちゃんと、勝てたのだ。
気持ちを外に出すのが得意ではない私だけれど、それでも、うれしさで声を張り上げて走り出したい気持ちになる。
今までのケンカでやってきたどの勝利よりも、嬉しい一勝だった。
私が勝てた相手の中では、ブラインドは一番強かった。いや、その強さを今考えてみれば、勝てたことが嘘のようなものだ。
しかし、全力をかけたとは言え、それでも勝てたのは嬉しい。その後に、すぐに意識を失ったけれども、そんな些細なことが気にならないほど、嬉しかった。
これは、勝てないと思う相手に、勝てた嬉しさだ。
今まで、私が自分を鍛えて来た結果で勝てたのだ。ヨシエさんの指導は、まだ身になるほど受けていない。だから、これは本当の意味での私の力だった。
私が喜んでいるのは、自分の力で勝てたことでは、決してない。
私は勝った。自分の全てを使って勝った。そして、これが私の限界であることも分かってしまった。
今の私では、これ以上はどうあがいても上にはいけない。それどころか、次に、もう一回順位の下の人間と戦えば、負けるだろう。
しかし、だからこそ、私は嬉しくて仕方がない。
全てを賭けた強さ。今の私の限界。しかし、私には、先がある。
自分の力でその先を目指すのは、非常に難しかったのだろうが、でも、私には、今先を見せてくれる人がいる。師匠とも呼べる人がいる。
強さを、はっきりと明確に現してくれる人が、いるのだ。
私の一人の限界は、ここまでだろう。しかし、ヨシエさんがいる限り、私にはまだ先が見える。
才能がなくて、先に行けないのでは、という不安もある。
ヨシエさんの指導に、私がついていけないのでは、という恐れもある。
でも、それでヨシエさんの強さは、遙か先にある「目標は」、少しも揺るがないのだ。それは、悔しさを通り越して、私には嬉しい。
ヨシエさんの言葉に従って、できるだけ授業を真面目に受けながらも、私の気持ちは、すでに放課後に飛んでいた。
ヨシエさんの見せてくれる強さに、私は、完全に夢中になっているのだから。
続く