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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(61)

 

 腰を落として構えていたバタフライは、軽い動作で、その脚を閉じた。

 綾香がいぶかしげな表情をするのに、微笑みを返してから、腕を広く構える。まるで、その腕に大きな物をかかえているような、不可思議な構え。

 これから、あの綾香と戦おうとする人間の取る構えには、まったく見えなかった。

 それでも、まったく油断していない綾香は、さすがと言えばさすがだ。マスカの人間が、そもそも予測とはかけ離れた動きをするのを、すでに経験で理解しているのも大きいのだろう。

 脇を広げ、腕で大きく円を描くように構え、脚はぴたりと閉じて、真っ直ぐに立っている。まったく動き易そうには見えない姿勢だ。

 それでも、そこから何かが出るというのなら、先手を打ってしまうのが、正しい戦い方なのだと、浩之も思うのだが、綾香はそんなことをするような殊勝な人間ではないし、浩之だって、この後、バタフライがどのように動くのか、興味がない訳ではなかった。

「……来ないんですね?」

 まさか、それでカウンターを狙っている訳ではないはずなのだが、バタフライは、綾香を挑発するような言葉を出す。

「せっかく、何かやってくれるみたいなのに、見ないで攻撃するってのも、もったいない話だなって思うしね」

「それでは、ご期待に応えない訳にはいきませんね」

 それだけ言うと、すーっ、とバタフライは息を吸い込む。それを、悠長に、うきうきとした表情を隠しきれずに、綾香は待つ。

 次の瞬間、浩之には、バタフライの身体が、一瞬大きくなったように見えた。

 シュパッ!

 気付いたときには、綾香は大きく後ろに飛んで、バタフライの前蹴りを避けていた。

 前蹴りは、パワーはともかく、スピードの出る技ではないのだが、それでも風切り音を奏でるほど、その前蹴りにはキレがあった。

 しかし、それよりも浩之を驚かせたのは、同じスピードのことだったのだが、バタフライの動きを、浩之が追えなかったことだ。

 正面から相対しているのならともかく、少し離れていたにも関わらず、バタフライの前蹴りに、反応できなかったのだ。

 綾香が後ろに避けたので、やっと前蹴りが放たれたことを理解するほど、それは素早かった……のだと思うのだが、それには、何かが納得しかねた。

 スピードは、速い。それはそうなのだが、何かがおかしいと感じていた。

 前蹴り自体は、ちゃんと目で追えていたのだ。しかし、それにも関わらず、浩之はバタフライの動きを捉えきれなかった。

 それは、綾香にも同じように思えた。バタフライから、綾香に攻撃を届かせるためには、一歩踏み込まなければならなかったのだ。

 たかが一歩だが、綾香にとってみれば、さまざまな対応をするには十分な距離だ。それなのに、綾香は後ろに下がって攻撃を避けることを選択した。

 あまり、後ろに下がるというのは誉められた防御方法ではないのだ。確かに避けることはできるかもしれないが、相手にさらに前進を許してしまうこともあるし、そもそも、後ろに下がったのでは、反撃できない。

 しかし、慎重に戦うのなら、距離を取るという行為は間違ってはいない。長距離でやりあっても、十分な実力を発揮できる綾香なら、その選択肢はあながち間違いとまでは言えない。

 つまり、バタフライは、綾香に慎重な行動を取らせるだけの攻撃を行ったということだ。最初だから様子を見よう、などという種類の慎重さを、綾香は持ち合わせていないのだから。

「へえ……面白いじゃない」

 本当に感心したように、綾香は言いながら、距離を取って、軽いステップを踏んでいる。話しながらも、すぐに動きが取れるようにしている。

「あなたも……流石と言うべきか、一撃目、かかりませんでしたね。決めるには不向きな前蹴りですが、あごを蹴り上げるつもりだったんですよ?」

 綾香とバタフライの身長の差は、ほとんどない。それにも関わらず、確かに前蹴りであってもかなり打点が高かった。身体が柔らかければ、自分の身長よりも高い相手の頭を蹴るのも不可能ではないとは言え、驚くべき柔らかさだ。

 キックがあごに入れば、綾香とて無事では済むまい。

「捉えきれなかったというか、何というか……うん、もうちょっと見てみないと、判断するのは尚早かな」

 綾香は、ぶつくさと独り言を言いながら、バタフライを牽制するように、素早くステップを踏んで動く。

 バタフライの目は、めまぐるしく動いたりはしなかったものの、綾香の動きを、ちゃんと捉えているようだった。綾香も、だからこそ、無意味な攻撃はしない。多少フェイントで相手の出方を見るだけだ。

 あの綾香が、ちゃんと慎重に戦っているというのは、考えてみれば珍しいことかもしれない。まず、どんな相手でも、強気に攻めて勝てるだけのものが綾香にはあるのだから。

 一撃を狙うために、防御に回るというのは、綾香にはさして珍しいことではないのだが、オーソドックスな攻めというのは、ここ最近見ていない動きだった。

 オーソドックスな、フェイントの多用が、そもそも打撃戦では多い。綾香は、すでにスポーツとしての空手に関しては、そのほとんどを修めていると言ってもいい人間であるから、オーソドックスな動きは、ほぼ完璧だった。

 それに、バタフライは、ちゃんとついていっているように浩之には見えた。相変わらず、おかしな構えだったが、それでも、動きは非常に素早い。

 受けたりせずに、全て避けているのは、コンビネーションを警戒しているのか……

 綾香がフェイントに軽い攻撃を混ぜているが、それを、バタフライは同じく後ろに下がって避けている。避けながら近づけば、反撃はできるのかもしれないが、その分、綾香に近づくことになり、それは直に危険なのだ。

 それに、ちゃんと研究しているのか、それとも偶然なのか、綾香に近づかない、というのは、一つ大きな危険からの回避になる。

 綾香の打撃を避けて懐に入ったところで、まだそこは安全圏とは言えないのだ。

 突き抜けたはずの拳が、後頭部を襲ってくる。綾香の得意技、ラビットパンチ。

 遠くに距離を取っている以上、ラビットパンチは狙えない。それに頼っている訳ではないが、綾香の得意技の一つを封じているのは確かなのだ。

 しかし、頼っている訳ではないと言ったように、綾香にとってみれば、それは些細なことだった。

 フェイントに混ぜた五発目のジャブを避けられたところで、綾香は探りを入れるようなフェイントを止めて、距離を取った。

 パンッ!

 と、その瞬間を狙ったように、バタフライの身体を回転させての裏拳が、綾香のガードの上を叩いた。

 ガードの上ではあったが、後ろに下がる綾香には、反撃することができない。バタフライの方も、それ以上の追撃は危険と判断したのか、後ろに下がった。

 やはり、その攻撃を、浩之は捉えきれなかった。モーションの少ないはずのない前蹴りだけでなく、あきらかにモーションの大きい回転の裏拳だ。見逃すなどということはないはずなのに、やはり浩之には知覚できなかった。

 綾香は、ダメージはまったくないのだろう、ガードした手を二、三度握り混みながら確認し、ふむ、と何か納得したようだった。

「やっぱ、面白いわ。捉えきれない動きね」

 綾香にも、捉えきれない動きなのだ。でなければ、綾香は後ろに下がるのを一瞬の判断で止めて、カウンターを撃つことさえできたはずなのだ。

 それには何も答えずに、バタフライは、にこり、と綾香に笑いかけた。

 自分から種明かしをする気はないようだった。しかし、綾香には、だいたいのところ、バタフライの能力が二回の攻撃でわかってきていた。

 まあ、だからと言って、どうこうできる類のものでないところが、問題なのだが。

「面白いというか、面白みのないというか、とにかく、こまった能力ね」

 少なくとも、綾香を楽しませるものを、この女性は持っている。それで綾香には十分だった。

 

続く

 

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