「へえ、わかったんですか?」
にこやかに、バタフライ尋ねた。
「まあね」
綾香も、距離が開いているとは言い切れない状態であるのに、平然と答える。しかし、それは相手も同じだ。この二人にとって、今の距離は遠いとは言えない。
「エクストリームチャンプともなれば、さすがと言うか、当然かもしれませんが」
「ほめても何も出ないわよ」
二人はは、じりじりと距離を測りながら、会話を続ける。
で、一体どういう能力なんだ? と浩之が考えているのに気づいたのか、綾香は説明しだした。
「つまり、モーションの少なさでしょ?」
「ご名答です」
隠す気もないのか、バタフライは素直に答えた。
浩之にも、その一言で十分だった。
バタフライの構えは、膝も伸びきっているし、肘も広がっており、決して瞬発的な動きに合ったものではない。
しかし、バタフライは、そこからほとんど、少なくとも遠くて見ている限りは判断できないほどの溜めで、動けるのだ。
打撃格闘では、驚くほど相手の攻撃を避ける者がいるが、これは、ちゃんと相手の拳なら拳を見て回避しているのではない。パンチ一発を打つにしても、身体のどこかに、ちゃんとした予備動作があるのだ。
でなければ、人間の反射神経を凌駕するボクシングのジャブなどを避けることなどできない。つまり、相手の攻撃が来る前に、相手の攻撃を予測する必要があるのだ。
バタフライは、その予備動作が、酷く小さい、そして、速い。
綾香の目から見ても、ほとんど反応できないぐらいの少なさだ。もっと何度も観察すれば、気付くかもしれないが、そんな時間などない。
予備動作を判断できない以上、綾香の回避も遅くなる。今は、それでも人間外れた反射神経で反応しているが、それでも一歩動きが遅くなっている。
何より、綾香の一番得意とするカウンターを合わせることは非常に難しいだろう。
カウンターは高等技術だ。そして、相手の動きを読めないことには、出しようがない。モーションの少ないバタフライの攻撃に合わせるのは、綾香であっても至難の技だ。
「モーションか……なるほどな、だから俺も反応できなかったのか」
浩之も、意識している訳ではないが、モーションを読んで相手の攻撃を回避しているのだ。今はその無意識が、綾香や修治のおかげで理論として頭に入っているので、余計に理解しやすかった。
「あら、彼氏さん、察しが良いようですね」
「まーね、自慢の彼氏だし」
笑顔でそんな軽口を叩きながらも、二人はじりじりと距離を測り合っている。それでも、バタフライはその構えをほとんど動かしているようにも見えない。それは、かなり器用なのではないのか、と浩之は思うのだが。
しかし、綾香にはもっと気になることがあった。
「その足先、面白いわね」
「あら……そこまでこの短時間で気付くものですか?」
それには、バタフライも、どこか演技臭い部分があった今までの会話とはうって変わって、本当に感心したようだった。
綾香に言われて、浩之もやっと気付いた。バタフライの、その足先に。
バタフライの足先は、ピンと立っていた。つま先だけが、地面に付いていたのだ。そのつま先だけで、地面に立っている。
……というか、それであれだけの動きをするのか?
その足先で立つことに、一体何の意味があるのか、これは浩之にはわからなかった。身体の力を出すためには、溜めが必要なのだ。そして、溜めというのは、曲がった部分からひねり出されるものだ。
身体中の関節を伸ばしているバタフライが、また一つ関節を伸ばしたことに、何の意味があるのだというのだろうか。
「普通気付かない?」
「いえいえ、私が戦った中で、それに気付いた人なんて、まだ数人しかいませんよ」
と、言っても、とバタフライは追加した。
「実は私、前回九位になったばかりなので、他の上位の人たちとほとんど戦ったことがないんですが」
それでも、前の九位を倒したということだ。
七位のクログモとどちらが強いか、というのは判断しかねるが、綾香にとっては、バタフライの方がやっかい、または楽しい相手だった。
トリッキー系こそ、正統で格闘技をしている相手を倒すためには向いている、と思っているマスカの関係者は多いだろうが、そうとも言い切れないのだ。
邪道は、所詮邪道。正統には、不意をついて一度しか効かないのだ。しかも、綾香は邪道もこなす正統であり、さらに、並大抵の正統ではなく、戦っている間に邪道を攻略することも不可能ではない。事実、クログモは、そうやって攻略してきた。
綾香は、素早くバタフライに近付きながら、左、右のワンツーを繰り出す。
それを、バタフライは、華麗とも言える動きで避ける。やはり、その構えからは信じられないほど素早い動きだ。しかし、ここまでは強い人間ならできる。
風を切る音が消えるよりも早く、綾香のハイキックがやや後ろに下がったバタフライの頭を狙って繰り出される。綾香にとっては、身体にしみつくまで練習したコンビネーションだ。
それを、バタフライは上体を落として避ける、のを綾香は一瞬で判断して、上に上がっていた脚が、かくん、と方向を変えて、下に落ち、上からバタフライに振り下ろされる。
バヒュッ!!
しかし、それも空を切った。バタフライは、上体を落としたまま、さらに綾香の蹴り脚の方向に飛び込んだのだ。結果、綾香の脚の下をくぐるような格好で、綾香のハイキックからミドルキックへ変化するキックを避ける。
ただし、横に飛ぶように避けたので、バタフライからの反撃はない。それを言うと、後ろに逃げている部分で、すぐにないのだが、何よりも綾香が怖いと思ったのは、バタフライのその後だった。
綾香が素早く体勢を立て直したのを見て、バタフライは反撃をあきらめ、また、距離を取っているというには近いが、瞬間というには遠い距離に自分を置く。綾香の攻撃してくる距離を読んだのか、さきほどよりも距離が広がっている。
その距離を見て、バタフライが臆した、とは綾香は考えなかった。
綾香のワンツーを避けて、さらにハイキックに反応して上体を落とし、さらにそこからの変形のミドルキックを横っ飛びで避ける。
そこまでは、九位という位置を見れば、驚くほどでもない。そこまで綾香の攻撃に反応したのはいいとしても、それ以上の余裕はないはずだった。
しかし、バタフライは倒れなかった。綾香でも、あれだけの動きをすれば、転がって体勢を立て直すのに、バタフライは、地面に手をつきさえしなかったのだ。
驚くべきバランス感覚。綾香の目には、それが何よりやっかいだと思えるものだ。
ここまで来ればわかる。少ないモーション、高いバランス感覚、そして、素人のような反射神経、運動能力だけのものではない、れっきとした「技」としての体術。
構えはどうあれ、今までの課程はどうあれ、バタフライは、正統の格闘家だ。少なくとも、その力は正統のものだった。
大きな変化なら、綾香ならついていく。それよりも怖いのは、むしろ、こういう小さい変化。
小さい変化、しかし、その実力は、本物。スポーツとしての試合をメインとした綾香にとっては、「苦手なタイプ」。
目の前にいるのは、そういうタイプの選手なのだ。
続く