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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(64)

 

 一瞬では、ない。

 しかし、バタフライの動きは、一瞬ではなくとも、一歩であった。

 一歩で動ける距離は、決まっている。どんなにコンパスのある人間であっても、限界はあるのだ。まして、バタフライは、マスカの中では、決して大きい部類ではない。

 リズムは、一歩分、しかし、その一歩分のリズムで、距離を完全に詰める。モーションがほとんどないからこそできる、バタフライの、目立たない裏技だった。

 今までの動きに慣れていた綾香は、今までと同じリズムであるからこそ、それに対応できない。だからこそ、あの綾香に対して、そこまで簡単に距離を詰めることができたのだ。

 そして、バタフライの特異な動きは、それだけにとどまらなかった。足先さえつけば、もうバタフライは自由に動くことができるのだ。

 一歩のリズムで、長い距離を縮め、さらに着地に時間を置かずに、攻撃に移る。

 バタフライと綾香との距離は、かなり近づいている。キックではなく、パンチの距離だ。

 完全にリズムに乗せられた綾香は、それでも素早く拳を打ち出そうとしている。しかし、バタフライの方が速い。

 勢いを殺さないように身体を回転させながら、バタフライは、身体を縮める。

 完全に綾香に向かって背が向いた瞬間に、バタフライは牙をむいた。

 バカンッ!!

 綾香の頭が、大きくのぞけった。

「っ!!」

 見ていた浩之が、声にならない叫び声を発した。まわりで見ていた浩之さえ、綾香の頭がのぞけって初めて、反応できたのだ。

 綾香の身体が、地面から数センチ浮いていた。

 突き上げたつま先を素早く降ろすと、バタフライは一歩前、綾香を背にしているので、綾香からは一歩下がって、素早く体勢を立て直す。

 綾香は、とっ、とっ、と後ろに二、三歩たたらをふんだが、すぐには倒れなかった。が、脚には力がない。

 その手応えから判断して、バタフライは、素早く綾香との距離をつめていた。間違いなく、直撃の感触だったのだ。

 片手で、あごをガードしたようだったが、ほとんど効果はなかったろう。バタフライの至近距離からの後ろ蹴りは、相手のガードを打ち抜く。

 距離が近かろうと、関係なかった。バタフライの柔軟性とバランス感覚を持ってすれば、どんな距離からだろうと、後ろ蹴りを、天に向かって放てるのだ。

 後ろ蹴りは、威力的にはかなり強力な技だが、普通は胴にしか当たらないし、もっと打点をあげると、蹴っている方がバランスを崩す。何より、遠い間合いを得意とする打撃なのだ。

 しかし、バタフライのそれは、後ろ蹴りの性質を、完全に無視したものだった。身体を下に縮めたもの、その後ろ蹴りを放つためだったのだ。

 バタフライの後ろ蹴りは、真上を狙うこともできるのだ。しかも、それは振り上げるのではなく、下から点に向かって突き出すように動く。

 下から来る、点の高威力の打撃。避けにくいし、ガードならその威力で打ち抜く。バタフライの隠し技は、綾香とて対応できるものではなかった。

 ダメージを負った綾香、バタフライとしては倒れないのが不思議なぐらいなのだが、に対して、追い打ちをかけるべく、下がった一歩の距離を、縮める。

 綾香の身体が、ぐらり、と後ろに傾く。

 と、同時に、バタフライは後ろに飛んでいた。

 シュピッ!

 綾香の倒れながらの下からのキックが、空を切る。

 とどめを刺すつもりで前進していたバタフライは、それでも無理矢理後ろに下がったので、さすがにキックを放った後の綾香まで追撃する脚は残っていなかった。

 くるり、と綾香は後転して、立ち上がることはなく、地面に手をついた状態で止まる。

「……ったあ」

 どこか呑気な声をあげながら、綾香はあごをさすった。

 反撃する余裕どころか、ダメージがあるようにさえ見えない綾香に、バタフライは、流石に驚いたようで、攻撃には移らなかった。

「……あれで倒れないんですか?」

「いや、さすがに危ないと私も思ったわよ。正直、今の後ろ蹴りは効いたわ。手で打点をぶらさなかったら、危なかったかもね」

 そう言いながら、綾香は受けた片手をぶらぶらとさせた。

「瞬間の判断を失敗するなんて、久しぶりよ、ほんと」

 余裕があるのかどうかは別にして、気楽に相手に話しかける綾香を見て、浩之はほっと息をなでおろした。浩之も、決まったかと思ったのだ。

 瞬間の判断、というのは、リズムを利用して距離をつめたバタフライに対して、綾香が攻撃を選択したことだ。

 防御に徹していれば、意表を突くバタフライの後ろ蹴りも、もっとうまく、少なくとも両腕でさばけていたろう。

 片方を攻撃に使ってしまった綾香は、片腕、いや、片手でバタフライの後ろ蹴りをさばかなくてはならなかったのだ。

 それでも綾香は、最大限にダメージを減らした。つま先があごを守るためにかまえた手に当たった瞬間に、手を横に動かしたのだ。

 直撃で受ければ、綾香とて危なかった。だから、手でダメージを横にずらして、直撃を避けたのだ。

 もっとも、完璧に成功した訳ではない。実際、綾香は今立たないのではなく、立てないのだ。いや、立てはするが、完璧な状態ではない。

 話をしている間も、回復に努めているのだ。綾香としてはせせこましい手ではあるが、背に腹は換えられない。

 しかし、バタフライだって、バカではない。それを見て取ったのか、会話の途中であるにもかかわらず、距離をつめる。

 バタフライは、届かないギリギリの距離から、脚を大きく振り上げた。綺麗に開脚されたかかとが、間合いに入ると同時に、綾香に向かって振り下ろされる。

 綾香は、それを横にころがりながら避けると、バタフライの背に回ろうと円を描いて動いた。

 もちろん、大降りのキックを放った後とは言え、バタフライの方には余裕がある。後ろにまわろうとした綾香に反応して、綾香に向き直る。

 そもそも、綾香の動きは精彩を欠いていた。考えてみれば、後ろ蹴りをあごに喰らったのだ。そうやってまだ動けている方が不思議なのだ。

 当然、バタフライとしては、綾香がダメージを回復する前に勝負を決したいところだ。いや、そもそも、この戦いの間に、回復するかさえも怪しい。

 勝敗は決した、とバタフライは判断していた。後は油断せずに、追いつめれば終わる。

 バタフライは、そう考えていた。しかし、綾香の顔を見て、動きが止まる。

 綾香は、ニィ、と凶暴そうな笑みを浮かべていた。せっかくの美貌が台無しになるような、子供じみた、というよりは、悪ガキのような笑みだった。

「私に勝てる、なんて思ってるでしょ?」

 当然、と口にしようとしたバタフライだが、それはしなかった。会話を続けて、綾香が時間を稼ごうとしていると判断したからだ。

 しかし、バタフライが手を出すよりも先に、綾香は言い切った。

「おあいにく様、私の勝ちよ」

 その言葉が、バタフライの動きを止め、その一瞬の隙をついたように、綾香の身体が動いた。

 

続く

 

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