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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(65)

 

「おあいにく様、私の勝ちよ」

 はったりだ、とバタフライは判断した。いや、そう思いこみたかった。

 有利なのは、間違いなくバタフライの方なのだ。それを、はったりで揺さぶろうとしているのだと、そう結論付けたかった。

 しかし、今まで見聞きしてきた、「来栖川綾香」という猛者が、今不利な状況であろうとも、それを覆せるだけの実力を持っていることを、バタフライは心の奥底で認めていた。

 自分と来栖川綾香の実力は拮抗している。ブラウン管の向こうではともかく、今の状況は、むしろバタフライに有利のはずなのだ。

 そこまで一瞬で考え、しかし、その一瞬の所為で、バタフライは綾香の動きに遅れを取った。それこそが、綾香の狙いだったのだ。

 ゼロコンマ何秒の世界で、そのバタフライが思考にかけた一瞬は、勝敗を決する。

 それでも、まだバタフライは綾香の動きが見えていた。いかな綾香でも、人の前から消えるようにまで素早くは動けないはずなのだ。

 攻撃はできなくとも、回避はできる。一撃を外せば、こちらに有利だ。

 バタフライの考えは、しごくまともなものだった。ここから無理に動くよりは、守りを固めた方がいい。バタフライの反射を持ってすれば、一撃ぐらい十分対処できるはずだ。

 しかし、突然、バタフライの視界から、綾香の姿が消えた。

 横っ!

 バタフライは、今までの経験から、相手が横に飛んだのだと判断した。縦の動きから、いきなり横の動きに変わることで相手を翻弄するなど、マスカでは初歩の初歩だ。

 たまに、下や上に動く選手も居るぐらいだが、それはない、とバタフライは瞬時に判断していた。

 案の定、バタフライは、視界の端に動くものを捉えると、素早くそちらを振り向いた。

 綾香は、素早く、コンクリの壁に飛んでいた。

 陳腐な、三角跳びか。

 いきなり意表をつく方向に飛んで、壁を蹴って相手に跳び蹴りをかける。アクロバチックな、うさんくさいながら、空手の秘技と言われることがまったくないでもない技だ。

 信じられないような話だが、バタフライは、今まで三角跳びを、二回経験している。マスカレイドのような特殊な戦いでは、これぐらいの飛び技、何も珍しいものではないのだ。

 綾香の三角跳びのスピードは、確かに素早かったが、バタフライが反応できないスピードではなかった。

 だが、ガードできないのも事実。綾香はそんなに体格があるわけではないが、全体重をかけて飛んでくる蹴りを、ガードするのはあまりにも危険だった。

 しかし、飛び技の弱点として、途中で軌道を変えられないということがある。バタフライは、素直に避けて、綾香が体勢を立て直す前に攻撃すればいいだけの話だった。

 ダンッ、と激しい音をたてて、綾香の身体が、壁を蹴った。

 横っ飛びで壁に足をついてからの綾香のスピードは、しかし、バタフライの予測を超えるものだった。

 悠長に、次のことを考えながら避けるには、真正面から来たにもかかわらず、綾香の跳び蹴りのスピードは、異常に速かった。

 それでも、バタフライは腰を落として綾香の跳び蹴りをかいくぐる。もし、胴体を狙われていたら、危なかった。そんなスピードだった。

 しかし、バタフライは、避けた。今の体勢は十分とは言えないが、それでも、綾香が着地して体勢を立て直すよりは、よほど速く動ける、その自信があった。

 その、次の瞬間までは、だ。

 ズガッ!!

 そのとき、バタフライには、何が起こったのか、まったくわからなかった。

 自分は動いているつもりはなかったのに、視界が、前に飛ぶ。そして、そのまま地面がバタフライの視界いっぱいに広がった。

 耳の奥に、キーンという聞き慣れた音がこだました。それでやっと、バタフライは、今自分がどうなったのか、判断することに成功した。

 と、同時に、バタフライの思考は、視界と共にぐにゃりと曲がった。

 それが、一瞬のことだったのか、それとも、数分間あったのか、それはわからない。しかし、バタフライは、意識が回復した瞬間に、腕をついて上体を起き上げた。

「    」

 後ろから、何か声が聞こえたようにも思えたが、今の混濁した意識では、それを知覚することができない。

 それよりも、問題は、身体の方だ。脚がまったく言うことを聞かない。腕だって、がくがくと震えて、今にも肘が折れてしまいそうだ。

 それでも、バタフライは何とか身体を反転させて、声の主に顔を向ける。

「どう、立ち上がれる?」

 三メートル先に、飄々とした顔で、彼女は立っていた。

 彼女からの救いの手は、まだなかった。それで、バタフライは、まだ自分が負けていないというのを初めて理解できた。

 これはまっとうな試合ではないのだ、十カウントも、TKOもない。悠長に相手が回復してくれるのを待っていてくれるのなら、バタフライとしては、文句はまったくなかった。

「な、何が……」

 息苦しいというよりは、麻痺したような息を吐き出しながら、バタフライはやっと声を出した。それで時間がかせげるというのなら、いくらでもしゃべる。

 少しずつ正常な思考が戻ってくるに従って、バタフライは、やはり何をされたのかさっぱりわからなかったのも事実だ。痛みから言って、後頭部に何か打撃を入れられたのはわかるのだが、それが何か思いつかない。

 空を飛んでいたはずの綾香にあそこで打撃は打てない。地面につかない限り、戻ってくることなど、できないのだ。

「私も初めて使ってみたんだけどね。ウサ耳パンチならぬ、ウサ脚キックは」

「相変わらず、ふざけた名前だな」

「ほっといてよ」

 浩之のつっこみに、綾香は不満そうな顔をした。もしかすると、本当にいい名前だとでも思っているのかもしれない。

 綾香は、それ以上の説明をしなかったが、横から見ていた浩之は、驚くべき光景を目にしていた。

 跳び蹴りを、かがんで避けられた綾香は、バタフライの頭の上を通過ざまに膝から先を折りたたんで、かかとをバタフライの後頭部にたたきつけたのだ。

 飛ぶスピードよりも、膝から先の折りたたむスピードが速ければ理論的には無茶ではない。しかし、やるとなると、話は違ってくる。

 バタフライの上を通過する瞬間に、綾香は腕を広げて、飛ぶ速度を落とした。何より、宙を飛ぶのは、極端にスピードが途中で落ちるのだ。綾香は、それを利用したのだ。

 さらに間の悪いことに、バタフライは、素早く頭を振り上げて、体勢を立て直そうとしていた。カウンターぎみに、完全な不意打ちで、そのかかとは決まったのだ。

 バタフライは、もう時間をかせげないと判断して、無理に立ち上がろうとしたが、綾香はその暇を与えなかった。倒れたバタフライに向かって、歩を進める。

 綾香の拳が動いた瞬間に、バタフライは両腕で頭をガードした。動けない以上、勝負は決まったようなものだったが、それでも、バタフライはダメージを最小に抑えようとしたのだ。

 しかし、バタフライのそのガードには、打撃は入らなかった。その代わり、綾香の両手が、バタフライの腕をつかんでいた。

 まずい。

 そう判断できたのは、綾香によって、バタフライの両腕が開かれ、無防備な上半身をさらしたときだった。

 バタフライの首に、綾香の両脚が絡む。それも一瞬のことだった。

 くいっ、と綾香の脚に力が入った瞬間、今度こそ、バタフライの意識は、完全に絶たれた。

 

続く

 

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