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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(70)

 

 シパァーンッ!!

 綾香の叩いた重いサンドバックが、綾香の一撃で手前に揺れる。

 サンドバックの動きとして、水平まで飛ぶとか、縦揺れするとか、そういうものなら珍しくとも、不思議ではないが、さっきまで動いていなかったサンドバックが、叩いたはずの綾香に向かって大きく揺れるのは、明らかにどこか間違っていた。

 パパパパパンッ!

 綾香は、それを器用に避けながら、連打を繰り返す。あくまでなでるように、しかし、鞭のようにスナップの効いたそれは、受ければたたでは済むまい。

 実際のところ、サンドバックが手前に揺れるのも、綾香なら不思議でも何でもなかった。綾香お得意のラビットパンチの練習だからだ。

 相手の頭を狙ってストレートを繰り出し、それを相手にわざと避けさせてから、避けられた拳を引いて、相手の後頭部を打ち抜く。

 避けたと思ったら後ろから来る、見ることもできない回避不可能な一撃が、急所である後頭部を襲うのだ。エクストリームでも、綾香の得意技となっている。有効だが、ボクシングでも反則技となっている物凄くえぐい技だ。

 普通は、それでも後頭部をなでるようにして、脳震盪を狙うのだが、というより、普通は威力を込めることができる体勢ではないはずなのだが、綾香の一撃はサンドバックを前に揺らす。それだけでも、威力がうかがえるというものだ。

 さらに、ラビットパンチは確かに綾香の得意技で、綾香も多用しているが、それが必殺技ではない、と綾香は自覚していた。

 威力、使い勝手共に、必殺の名を与えてもかまわない技ではあるが、綾香はこれに頼っているつもりはなかった。強いのは、綾香であって、技ではないのだ。

 だから、この必殺と思える技の後にコンビネーションを入れる練習をしている。後ろからの攻撃を避けられる猛者であっても、とっさに避ければ隙ができる。そこを狙わない理由はない。

 何より、予測して避けて、綾香の動きが止まるのを狙う相手に隙など見せないための連打だ。

 そういう意味では、綾香の考えから言うと、まだまだ綾香のラビットパンチは完成した技とは言い切れない。どうしても、撃った後に溜めが残ってしまうからだ。

 直線と直線を組み合わせているから、技の性質上隙は仕方ないとも言えるが、そんな理由で綾香が満足する訳ではなかった。

 満足、と言えば、今日の綾香は多少不安定だ、と自分でも思っていた。

 今日は浩之は武原道場に行く日で、葵も同じくいない。だから、綾香も自分の家で練習をしているのだが、正直浩之といられないのは、不満である。

 しかし、ここしばらくのマスカレイドでのらんちき騒ぎは、エクストリーム予選で飢えた綾香の気持ちを、けっこう満足させていた。

 不満と満足が入り交じって、綾香は集中力を欠いている。それでも、練習に身が入らない訳ではないあたりは、普通では考えられないことなのだが、綾香にしてみれば、それが普通なのだから知ったことではない。

 綾香の練習の邪魔は、飢えか欲求だけだ。もやもやしたものなどに邪魔されたりしない、それが綾香の本当の意味での天才の能力なのかもしれない。

「おや、綾香お嬢様、ご機嫌ななめですかな」

「出たわね、怪物じじい」

 自分に気配を感じさせないように入ってきたセバスチャンに、綾香は聞こえるようにつぶやいた。もちろん、綾香はセバスチャンが入って来たことに気付いていた。それで感情を隠したりしないのは、綾香たる所以か。

「……というより、私、見てわかるぐらい不機嫌なんだ?」

「そうですな、あの小僧が見たら、逃げ出すと思いますぞ」

「……」

 ありそうな話である。浩之は恋愛事以外に関しては、非常に敏感であり、何より身の危険に関しては、超能力かと言いたくなるほど鋭い。もっとも、綾香にかかってしまえば、気付いていても逃げられるものではないのだが。

「それで、何がそんなに気に入らないのですかな? この老体でも、もしかすれば何か参考になることが言えるかもしれませんぞ」

 綾香は、ふとぴんと来た。自分をして怪物と呼ぶセバスチャンになら、聞いてみてもいいのでは、いや、むしろ適任なのでは、と。

「最近さ、ちょっと面白い相手を見つけてね」

「ほう、それはそれは」

 綾香の面白い相手、となると、一筋縄ではいかない相手だ。セバスチャンも感心しようというものだ。ただ、本当のところを知られたら、危険だと言って一人でマスカレイドを粉砕しかねないので、細部は黙っておくことにする。

 綾香が強い相手と突発的に戦いたくなるのはいつものことだ。それぐらいでは目くじらを立てたりはしないだろう、と綾香は目星をつけた。

「それで、強そうなのに三人ばかり当たったんだけど……」

「満足できませんでしたか?」

「そんなことないわよ。楽しめた、うん、楽しめたわ。一人には一撃入れられたし、二人にはクリーンヒットを許したわ」

 今度こそ、セバスチャンは驚いた。セバスチャンならわからないが、もうそこらのプロでは、綾香に一撃入れることなどできないところまで、綾香は来てしまっているのだ。

「では……一発もらった不覚を恥じているのですか?」

 わからなくもない話だ。今まで完璧で来た綾香にしてみれば、一撃入れられることは、屈辱かもしれない。

 しかし、それにも綾香は首を振る。面白いとは思っても、屈辱などとは綾香は思わなかったのは本当だ。

「それでは……まさか」

 綾香はぶんぶんと笑って首を横に振った。

「勝ったわよ。終わってみれば圧勝。全員ちゃんとKOしたわよ。三人目は締め落としたけど、同じようなものでしょ」

 「でもねえ」と綾香は、憂いを含んだ顔で続けた。これで、言っていることがここまで物騒でなければ、非常に様になる表情なのだが、これが綾香の本性なのだから仕方ない。

「一発許したのはいいのよ。相手が強かったからだものね。でも、どうも最近、私たるんでたんじゃないかなってね」

 それは、あるだろう。というより、綾香ほどの強さがあると、緊張して戦えることが少ない。

 綾香が強くなるには、世の中には致命的なほどに、強い者がいないのだ。

 綾香から見れば、ほとんどが弱者。余裕で勝てる相手だ。それでも、何とか綾香は持続するどころか、さらに強くなろうとするのだが、やはり、精神的にたるんでしまうのは仕方ないことかもしれない。

「三人とも、一撃受けるまで、油断してた訳じゃないけど、どこか手を抜いてやってたのよねえ。だから、一撃受けた後は、もう圧勝」

 強がりではない。それが証拠に、二発目を綾香は受けていない。だからこそ、口惜しいのだ。本気を出せば、それこそ一撃も受けることなく勝てただろうに。

 一撃受けなければ本気を出せないなどという致命的な性癖は、綾香は欲しくない。それでも、相手をなめているわけではないけれど、また手を抜いてしまうような気がしていた。

「セバスチャンは、実戦とかそっちもやってたんでしょ? これ、どうにかならない?」

「そうですな……まあ、仕方ないかと思うところもありますが」

 綾香は、残心ができない。警戒を解き、ただ心をそこに残すことができない。それは、この現代には積極的に必要なものではないし、何より、格闘家と言ってもスポーツの世界で戦う綾香には、いることのないものだ。

 完璧に見える綾香も、そういう部分は、どこか未熟なものが残っているのだろう。セバスチャンは、それを尊いと思いこそすれ、注意する気にはなれなかった。

 武道の本随は精神的なものとはしても、それとはまったくかけ離れたところで、強さというものは存在するのだ。そして、綾香のそれは一級品であるのだ。

 綾香は、曖昧なセバスチャンの言葉にふうっ、とため息をついた。

「ま、いいわよ。言ったところでどうなるものでもなさそうだしさ。自分なりに、少しずつ治していくことにするわ。丁度、いい相手もまだ残っているしね」

「綾香お嬢様、危険なことはほどほどにしていたただきたいものですな」

「大丈夫だって、私と浩之と葵が、遅れを取ることなんてないわよ」

 それは、まあそうなのだろう。何より、綾香は無茶を繰り返すようにしながらも、隙を見せない。悪党でさえ付け入る隙がない。あったとすれば、それは罠の可能性が非常に高い。

 それに、とセバスチャンは思うのだ。

 綾香お嬢様は、そんな精神的なことでさえ、武道とはまた違う世界から、無理矢理克服してしまうのではないか、と。

 それは、流石に仕える者のひいき目だろうとも、いや、やはりそれはそうなるだろうとも、思うのだ。

 目の前にいるお嬢様は、まさに天才であり、そして最強であるのだから。

「あ、セバスチャン、ちょっと付き合ってよ。久しぶりに、相手してよ」

 綾香の数少ないスパーリングパートナーができる初老の男は、仕方なく、頷いた。

 

続く

 

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