「ありがとうございました!」
「……した」
私は喉の奥から絞り出すように声を出した。松原さんの挨拶と比べれば、蚊の飛ぶような声しかでていない。
挨拶に不満があるわけではない。確かに私はレディースに入っているが、別に人に頭を下げるのが嫌だというわけではないし、そもそも、レディースはむしろ上下関係には厳しいのだ。挨拶はその基本でもある。
声がほとんど出なかったのは、息切れの所為であり、私の意志ではなかった。
空手部の練習は、正直きついと思った。そもそも、練習とは言っても、一人ではどうしてもだらけてしまう部分がある。それが、部活になるとそういう訳にもいかず、不慣れな私にとっては、練習中よりも終わった後に来る筋肉痛の方がきつかった。
しかし、松原さん達と、こんな練習するにも道具もほとんどないような場所でやった練習は、そんなものではなかった。
正直、声が出ない。息が切れて、声を出せるぐらいなら、もっと先に酸素を取り込め、と身体が要求してくる。
明日は間違いなく筋肉痛、しかもとびきり酷いやつだろうなあ、と私が酸欠であまりまわっていない中でぼうっとしていると、ふいに肩を叩かれた。
振り向くと、こちらも汗だくになったヨシエさんが、ペットボトルからスポーツドリンクを飲みながら気持ちよさそうな笑顔になっていた。
「おつかれ、ラン」
「……押忍」
「はは、さすがにばててるみたいだね」
そういうヨシエさんは元気そうだと思った。こんな地獄の練習の終わった後の態度にはどうやっても見えない。さすがだと思う。
「ほら、飲みな。ガブ飲みはするなよ」
さっきまでヨシエさんが飲んでいたペットボトルを渡され、私は数瞬戸惑った。
これって、ヨシエさんと間接キス……
私は、そのどうしようもない妄想を頭を振って消すと、ありがたく飲ませてもらうことにした。しかし、お礼の言葉も、喉がかれて出ない。
まずは、言われた通りに、一口ゆっくりと飲む。
息の切れた身体にしみこむようなうまさがあった。どこにでもあるスポーツドリンクなのだろうけれど、今の私には、何にも代え難いものだった。
気付くと、私は喉を鳴らして、ごくごくと遠慮なしに身体にスポーツドリンクを流し込んでいた。思っている以上に、身体が水分を欲していたようだった。
「道場には飲み物は用意してるけど、ここは持参だから。私も言っておけばよかったね」
さっきガブ飲みはするな、と言ったヨシエさんだったが、それでも私を責める気配なかった。
そう言えば、部活動では、必ず飲み物を用意してあり、私も用意を何度かしていた。部活中は、自由に飲んでもいいというのだが、私の部活動のイメージからは、少し離れた光景だった。
「練習中の水分補給は重要だからね」
「押忍」
何とか息が落ち着いてきたので、私はあまり意味も分からなかったけれど、返事だけはしておいた。押忍とは便利な言葉である。
「で、どうだった?」
「……どう、とは?」
色々あって、どうと言われても、私はすぐには返せなかった。
一番重要かと思われる、松原さんに関して言えば、私は完敗だった。
至近距離での飛び踵落としを受け流された時点で、私の心は折れていた。だから、次に続く松原さんの正拳突きに、反応すらできなかった。
今考えても、自分が情けなくなってくる。松原さんは、正拳突きを寸止めしたので、私は事なきを得たが、当たっていれば、間違いなくKOだ。
普通に真っ正面から戦ったとしても、避けることができるがどうか不安な正拳突きを、心が折れたところに入れられれば、どうすることもできない。
負けるのは、まだいい。本当は良くはまったくないのだけれど、仕方ない。いや、仕方ない訳でもないのだけれど……
そう、私は負けることに納得などするつもりはなかった。やろうにもできない。ヨシエさんに対してだけは、特別なのだ。
でも、そのくせに、心の方が先に折れてしまった。呆然として、追撃どころか回避さえ思いつかなかった。
「松原さんは、強かったです。それと……自分が、恥ずかしいです」
ヨシエさんが、私の心が折れたことに気付かなかった訳がない。もっと言えば、松原さんは、私の心が折れたこと、自分の勝利、を確信して、拳を止めたのだというのは、間違いのないこと。
穴があったら入って蓋を閉めたい気持ちだった。人の強さを実感することはあっても、自分の弱さを実感したのは、これが初めてだった。
たった、一度相手に技を避けられた程度で、折れる心など、何を持ってケンカ屋と言えるだろうか。どこが人に誇れるというのだろうか。
二人でサンドバックを片づけている松原さんに私は目を向ける。
私に比べ、松原さんの何と強いことか。あの小さな身体のどこに、その強さが出てくるのだろうか、その点については、疑問にも思う。
その強さから来る自信は、必ず松原さんに、強い心を与えているはずだ。私のように、簡単に折れたりしない、鋼の心を。
私の心を知っているだろうヨシエさんは、苦々しく笑いながら、私の肩を叩く。
「んー、まあ、そりゃ格闘技の強さで言えば、ランには悪いけど、葵がランに負けることはないね。私から言うのも何だけど、葵は凄いからね」
後輩の自慢をするヨシエさんは恥ずかしそうにしながらも、どこか嬉しそうで、私の胸がちくりと痛んだ。
松原さんほど、私が強くなることは、万に一つもないと思う。それでも、ヨシエさんにそう言われると、私は泣きたくなってしまった。
必死で涙をこらえる私に、ヨシエさんは、意地悪く笑った。
「でも、葵って、心が強いとは、とても言えないんだけどね。というか、むしろ弱い方に入るんじゃないか?」
え?
ヨシエさんの言葉の意味を、私は理解できなかった。というより、何を言っているのだろうと思った。言っている言葉が、道理にかなっていない。
「ついこの間までは、試合になるたびにあがって、実力の半分も出せずに負けちゃうっていうパターンを繰り返してたんだから」
「で、でも、エクストリーム予選一位……」
ヨシエさんからそう聞いていたし、何よりも、ヨシエさんを一度でも倒す人間が、心が弱い? そんなバカな話はない。
「今は、あそこにいるバカとか、私に勝ったからとか、色々あってだいぶ強くなったみたいだけど、安定してると言うには、まだまだ」
「……」
信じられない。だったら、どうやってヨシエさんに勝てるのだろうか?
心技体と言うけれど、それが全てそろっていない状態で、ヨシエさんに勝てる?
「今日、ランを連れて来たのは、葵を普通に紹介しておきたいのもあったんだけど、もう一つ、葵を、ランに見せたかったんだよ。弱くとも、強くなれる、そしてまだ強くなれるというのを、見て欲しくてね」
私が、強く……
松原さんと戦った結果で、折れかけていた私の強さに対する気持ちが、再度、燃え上がる。戦う前よりも、より強く。
「空手は、身体だけじゃない、心だって強くするんだ。私は、そう信じてる。そして、ラン、あんただって、強くなれる。身体だけじゃなく、心も」
ヨシエさんの心遣いが、痛いほどだった。
ただ、私がケンカに強くなれるだけを、ヨシエさんは望んでいる訳ではないのだ。同じように、心さえも強くしようと、ヨシエさんはヨシエさんなりに、最善の手を尽くしてくれているのが、私にも理解できた。
だから、私は、ためた涙を我慢することなく、でも下を向いて、感謝の気持ちを、ヨシエさんの手を強く握ることで表した。
続く