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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(79)

 

 どう料理してやろうか、と考えたはものの、坂下は、とりあえず様子を見ることにした。というより、そうするしかなかった。

 この水が、邪魔なのだ。

 正拳突きなら、この水の張られた試合場でも、相手をKOするだけの威力を出す自信はある。その点で言えば、回し蹴りでもそうだ。

 しかし、蹴り技は、正直当てられるとは思えない。水で殺されるスピードは少しではあるが、その少しの時間差が、この相手にははなはだまずい。

 脚のスピードを殺されるというのは、全てのスピードを殺すのと同じ。威力は出せても、平常の威力よりは落ちるし、何より当てるのが難しい。

 反対に相手は、腰の入っていない手打ちのパンチでいいのだ。それでも腕力とナックルの硬さが、十分な威力を生む。

 坂下とて、ナックルの直撃を頭に受ければあぶない。武器を否定しても、有利不利、その程度の分別はある。

 蹴り技よりもスピードを殺されない突き技で勝負するしかないか。

 技を制限された状態で、このレベルの相手と戦うのは、さすがに自殺行為にも感じるが、仕方のないこと。

 というより、アリゲーターが、フェアな状態でも、簡単に勝てる相手でないことを、坂下はもうすでに認めていた。

 そんな相手と不利な状況で戦う。普通なら、戦う前から気力が萎えそうな状況だが、坂下はその点について言えば、掃いて捨てるほどの気力があるので問題はない。

 パシャッ

 相手が水の蹴る音と同時に、射程範囲まで、アリゲーターは簡単に入ってくる。水のことがなくとも、十分にスピードがある。

 左ジャブを、坂下はスウェイして避ける。そのまま受けるほど、バカではない。

 坂下が避けたためにできた一瞬の隙を狙って、アリゲーターはさらに右フックを坂下に向かって繰り出す。

 ボッ!!

 両方の拳が、空を切る音が響く。水音よりも大きなそれに、観客が感嘆の歓声を上げる。

「……ちっ」

 アリゲーターは、舌打ちしながら、たたらを踏むように距離を取った。一瞬追いすがろうかと思った坂下だが、アリゲーターがあまりにも軽やかに水の上を動くので、追撃は断念した。

 アリゲーターの右フックに、坂下は同じく右フックを重ねたのだ。

 結局、どちらともお互いの攻撃をかいくぐって事なきを得たが。

 最初から手打ちのパンチを狙っていたアリゲーターよりも、腰の入った坂下のパンチの方が、空を切る音は大きかった。それを聞いた人間の本能としての恐怖が、アリゲーターを後ろに探させたのだ。

 坂下としては、近距離の撃ち合いは、別に悪くない選択だ。確かに、相手の手打ちでいいナックルのパンチは怖くはあるが、しかし、坂下なら全て避けられないこともないし、一発では坂下は沈まない。

 反対に腰が入れば、スピードは落ちる。坂下なら、カウンターを合わせるのもそう難しい話ではないのだ。

 何より、近づけば、スピードの減少の効果を最低限に出来る。後は技術で、アリゲーターに勝つ自信があった。

 そう言う意味では、さきほどのフックの空振りはいただけない。アリゲーターは警戒して、あまり中には入って来ないようになるだろう。

 だから、坂下はその失敗とも言える行動を、最大限に利用することにした。

 アリゲーターに顔を向けると、余裕ありげに、ニッと笑って見せたのだ。

 あまり上品な手ではないし、何より女の子としてニッと笑うのはどうだという話もあるが、そもそも、女の子の点について言えば、坂下は自分に花の咲くような笑みなどまったくもって似合わないことぐらい自覚がある。

 試合などでは、相手への挑発は注意を受ける対象だが、試合だけではない、実戦を経験してきた坂下にとっては、使うことのできる戦略の一つでしかなかった。

 アリゲーターには、半分恐怖にかられて後ろに下がった自覚があるはずだ。坂下は、そこを狙ったのだ。

 だいたい、こんな場所で戦う人間、しかも強いとなれば、自己顕示欲が少ないとは思えない。だから、弱みをつっこまれれば、簡単に冷静さを無くすはずだ。

 よしんば、効果がなくとも、使うのは坂下の十円もしない笑顔だ。何ら問題はない。

「けっ、いきがんじゃねえよ、アマ」

 ……悪態はつくが、冷静さを無くすにはちょっと弱いか。

 明らかに先ほどよりも攻撃的にはなっているが、さりとて、冷静さを無くしたというには、まだまだだ。

 まあ、どんなに攻撃的になったとしても、驚異的には変わらないからいいけど。

 勝てる、という絶対の自信が、坂下の腹の奥で鎮座している限り、坂下があせるようなことはない。

 坂下のその腹の奥にあるものを、今まで打破したのは、たった一人、たった一回だ。

 それを思い出して、坂下の口の中に苦いものが走る。しかし、それは同時に坂下に気合いを入れる。

 もう二度と、折れたりはしない。

 アリゲーターが距離をつめるのも、目には入って、対処はするが、今の坂下には頭に入っていなかった。

 頭にあるのは、もっと強い「モノ」なのだから。

 アリゲーターは、単につっこむのも意味がないと判断したのか、坂下のギリギリ腕が届かない範囲で、パンチを連打する。

 それぐらいは、坂下にとっては対処するなどお手のものだった。

 だが、坂下が一歩出ると、アリゲーターはすぐにまた距離を取る。

 完全なアウトボクシングスタイルだ。スピードで勝り、ジャブで十分なら、確かに戦略として正しい。

 坂下は、今のところ避けきってはいるが、一度当たれば、どうしてもほころびが出るだろう。そこでまだ避けきれる、とまで坂下も言えない。

 どう攻めたものか、坂下が思案した、一瞬の隙だった。

 アリゲーターの身体が、横や後ろの動きから、突然前への動きに変わった。

 くっ、うまい!

 坂下の意識の隙をつく、貶しようのない素晴らしい動きだった。これを出来るのは、空手の選手の中でも、多くはいない、そんな動きだ。

 攻撃ができないまま、坂下はアリゲーターの接近を許してしまった。

 坂下にも、一瞬だがあせりが生まれる。ほんの一瞬で、まだ腕をしまっておくべきところを、一瞬早く手を出してしまった、その程度のあせりだった。

 だが、アリゲーターにとってみれば、それこそ狙うべき一瞬だった。

 坂下のフックが空を切った。アリゲーターの身体が、一瞬坂下の視界から消える。

 坂下は、空を切った瞬間には、もう冷静さを取り戻していたが、しかし、それでは遅かった。

 アリゲーターは、坂下のフックを下にかいくぐると、坂下の腰に向かって、タックルを仕掛けていた。

 腰に腕をまわされ、坂下の身体が、宙に浮いた。

 

続く

 

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