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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(80)

 

 完全に決まったタックルは、坂下とて切れない。

 腰を落とす暇もなかったし、打撃で打ち落とす余裕もなかった。あっさりと懐に入られ、坂下の身体が浮く。

 坂下は、とっさに両脚を広げていた。

 パシャーーーンッ

 水しぶきをあげながら、坂下の身体が水の上に落ちる。面積の大きい背中から落ちたものだから、音も水しぶきも派手だ。

 坂下ともあろうものが、タックルを許して、あまつさえ上に乗られた状態で倒れてしまったのだ。

 しかし、そこからとっさに攻撃するのではなく、相手の胴に脚をまわして、ガードポジションの体勢を取れたのは、ひとえに今まで浩之達に付き合って、組み技の対処だけでも練習していたからだろう。

 アウトボクサーの距離を取って、打撃で来ると見せかけてのタックル。しかも横から縦の動きの変化もつけてだ。相手が組み技も使うというのは分かっていたはずなのだが、それでも坂下はアリゲーターが組み技を使うことを、わかってはいても頭の中から無意識に除外していた。その隙を狙われたのだ。

 マスカでは、倒れた相手への打撃も許されている。それは単純に倒れた方の不利を示していた。坂下さえ、人を打撃で殺せと言われれば、まず相手を倒してから蹴る。

 とっさに、相手の胴を脚で挟んで、マウントポジションにも立っての打撃へも移行させなかったのは僥倖だが、坂下にとっては完全に不利な体勢だった。

 水は、そこまでは邪魔にならないが、しかし、確実に下になった者の体力を奪う。何より、顔を水に押しつけられるという危険もある。

 何より坂下は、素人という訳ではないが、組み技は得意ではないのだ。対処はある程度練習してはいるが、所詮は付け焼き刃程度。打撃と比べると、天と地の差だ。

 それとは逆に、組み技にも十分な自信があるのだろう、アリゲーターは、マスクから出る口元をにやりと歪ませた。

「自分から股開くとは、案外大胆なんだな」

 明らかに坂下の冷静さを奪おうとする言葉で、坂下は多少なりとも反対に冷静になった。すでに完全に有利な体勢になったので、余裕を出しているとも見えるが、坂下には、相手がすぐに仕掛けて来ないぐらいは、ちゃんと防御がなっていると考えた。

「……」

 答えてやる義理はない。坂下は、めまぐるしく身体の調子と、相手の出方を判断していた。不利であればあるほど、集中しなければいけないのだ。今の坂下は、水の冷たさも感覚に登って来ない。ただひたすらに、今の状況を打破するために動いていた。

 と、会話を続けると見せかけて、アリゲーターは有無を言わせず、坂下の顔面に拳を叩き付けようとして、しかし、空を切った。

 坂下が、胴にまわした脚で、アリゲーターを遠ざけたのだ。会話しているからと言って、油断してやる義理はなかった。

「ちっ」

 舌打ちすると、アリゲーターは身体をあげて、坂下の脚に手をやる。坂下の蟹挟みを外して、上に乗るつもりなのだろうが、それを許す坂下ではない。

 自慢の脚の筋肉は、簡単に相手を外したりはしない。少なくとも、ガードポジションであれば、致命的なダメージは避けられるのだ。

 拳をたたき込もうとして近づけば、手首を取るなり、脚で遠ざけるなり、防御方法はいくらでもある。

 根本的な解決策にはほど遠いが、不利な体勢になった以上、それを解決する策が出るまで、坂下はねばるつもりだった。自分の油断が生んだ結果であろうとも、無理矢理抜け出そうとなどはしない。正面からやれば、何とかできる自信があるからだ。

 しかし、アリゲーターもそのままで済ませるほど、おとなしくはなかった。

 ガッ!

 鈍い音と痛みが、坂下の太ももに走る。

 ナックルで強化された拳を、アリゲーターが太ももにたたき込んだのだ。手打ちのパンチとは言え、鉄で殴られる以上、ダメージは入る。

 ガッガッガッ!

 さらに、アリゲーターは坂下の膝を狙って拳を打ち込む。

「くぅっ」

 脚の力が緩むのを、坂下は必死に我慢する。確かに、坂下の身体は頑丈に出来てはいるが、しかし、ナックルを何度も叩き付けられてもまったく平気なほど人間離れはしていなかった。

 だが、ここで脚の力が弱まれば、脚を外され、上に乗られる可能性は高い。そうなると、坂下とて負ける可能性は高い。

「いい加減あきらめなっ!」

 アリゲーターの声に、しかし坂下は答えることなどなく、身体をひねってアリゲーターのバランスを崩し、少しでもパンチを打たれないようにする。

 その、防御のための動きに、アリゲーターは反応した。

 逃がさないためにきつく閉めた脚は、反対に、アリゲーターを外に押し出す力は弱まっていた。

 アリゲーターは、力まかせに坂下の上に覆い被さると同時に、坂下の顔面にフックをたたき込む。

 ガッ!!

 今度は、完璧に坂下の額にナックルが入る。それを見て、今まででさえ耳が痛くなるほど叫んでいた観客達の歓声が一層大きくなる。

 アリゲーターは、その一撃で、坂下の脚が緩むのを感じ、しかし、手加減も油断もしなかった。

 マウントを取るよりも何よりも先に、もう一撃坂下の顔面を拳で殴りつけたのだ。

 ガキンッ!!

 確かな手応えが、手打ちにもかかわらずアリゲーターの腕に伝わる。決まったと思った一撃だったが、しかし、それでもまだアリゲーターは油断していなかった。

 一発が入ると同時に、マウントを取るべく、坂下の脚に手をかける。二発のナックルを受けた坂下の脚には、すでに力が入っていなかった。

 ドカッ!!

 と、次の瞬間には、アリゲーターの身体が、大きく後ろにはね飛ばされる。

 水しぶきをあげながら着地したアリゲーターの前で、坂下が同じく水しぶきをあげながた立ち上がった。

 決まる、と思っていた観客達は、それを見てよりヒートアップしていく。一体どんなマジックでアリゲーターを下からはね飛ばしたのか、見ていた者もわからなかった。

 額を落ちてくる生暖かい感触に、自分が出血しているのを坂下は感じたが、まったく気後れることはなかった。

 アリゲーターをはね飛ばしたのは、下からの全身のバネを使っての蹴りだ。一所が地面についてさえいれば、相手を吹き飛ばす類のパワーなら生み出すことができる。坂下にとっては、手品でも何でもない。

 問題は、その体勢に持って行くまでだ。身体をぎりぎりまで引き絞った状態に持って行くからこそ、下からでも相手をはね飛ばすだけの威力が出せる。

 そのために、坂下は一度、相手のナックルを無防備で受けた。

 一発目は、完全にアリゲーターに技術負けして受けたナックルだが、二発目は違う。いかにそれが鉄であろうとも、坂下は来るとわかっている打撃なら、受ける自信があり、その通りに、逃げずに受けた。

 そして、脚を外そうと坂下の脚をどける。その瞬間に、坂下は脚を折りたたんだのだ。

 坂下の上になろうとしてるアリゲーターの身体は、どうしても坂下との距離を取る。その距離が、坂下の地面からの蹴りを生むパワーを生んだのだ。

 にしても、この私が簡単にタックルなんてかけられるとは……

 怒りや戒めを通り越して、坂下は笑いたくなった。この私が、とか言っておきながら、なすすべなくやられているのだ。それは、笑いたくもなってくる。

 坂下は、黒帯をゆるめ、帯を地面に落とす。

 そして、距離を取って様子をうかがうアリゲーターの前で、水に濡れて重くなった道着を脱ぎ捨て、後ろに投げた。

 そして、自分の拳に目を落とす。

 いいようにやられている。それが嫌ならば、自分も本気を出すしかないではないか。

 坂下は、ナックルガードに、手をかけた。

 

続く

 

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