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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(81)

 

 バシャリと重たい音を立てて、道着が水の張られた地面に落ちる。

 そこから現れたのは、しなやかな中にも、丸みを感じさせる少女の身体だった。ふくよかと言わないまでも、十分に存在を誇示している胸を覆い隠す白いシャツは、べったりと濡れ、健康的なスポーツブラが透けて見える。

 一瞬、その健康的であっても、どこか危険をはらむ色気に、観客のみならず、相手であるアリゲーターも息を呑んだ。

 坂下は、静かな表情で、道着を捨てた手を、ウレタンナックルにかける。

 ベリッ、とマジックテープのはがれる小さな音。それだけで、その剣は抜き身となった。

 左手のウレタンナックルが水の上に落ちたのを見て、アリゲーターは仕掛けるべきだと判断したが、すでに時を逸していた。

 坂下は、アリゲーターの動きを何も気にすることなく、もう片方のウレタンナックルにも手をかける。

 装備を外すという無防備な状態を、二度も許したアリゲーターではあったが、三度目を許す訳にはいかなかった。

 一歩前に出ようとしたアリゲーターの視線を一直線に、坂下の鋭い眼光が貫いた。

 アリゲーターは、三度目のチャンスも、あっさりつぶしてしまった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、アリゲーターは動けなかった。

 気押された、というよりは、怖じ気づいたとも見て取れるほど、アリゲーターの顔が、一瞬恐怖に覆われたのを、坂下は何となしに見た。

 何を、そんなに怖がるのだろう。

 パシャリ

 右手のウレタンナックルが、坂下の手から落ちる。手についた水分が、風に当たって坂下の手の平から、熱を奪い去る。

 それは、坂下には開放感としか感じられなかった。開放感の後には、いつも通り、坂下の手は。

 熱く、熱く、熱を持つ。

 一瞬で沸点にまで達するかと思うほどに、坂下の手は熱を発する。自分の身を焦がすつもりなのではないかと思うほど、手が焦がれているのが、坂下にはよく分かる。

 格闘技に神秘的なものを求める者なら、「気」が通ったと大騒ぎをするのでは、と思えるほど、熱は劇的に、急激に来た。

 坂下にとっては、いつものことだ。戦いを求める手は、いつも熱を持つのだ。

 アリゲーターに、その熱が見えた訳ではないだろうが、しかし、アリゲーターの表情が、明らかに変わっている。

「ちっ」

 舌打ちを一度、アリゲーターは何とか表情を作る。メッキであることを坂下が理解している以上、意味はないのだが、おそらくはアリゲーターにも矜持があるのだろう。

「道着脱いで、色気のねえ姿で誘惑か? せめて素っ裸になってくれよな」

「……」

「しかし軽口は置いておいて……空手家が道着脱いでもいいのかよ?」

 空手家には、当然空手家の矜持がある。そういうこだわりは、けっこうバカにできない。アリゲーターは、その点をついて、坂下の動揺を誘おうとしていた。

「……」

 坂下は答えない。案外、坂下はこういう挑発に付き合ってやることが多い。揺るがないものを持っている人間には、挑発につきあってやる余裕があるのだ。

 今の坂下に、アリゲーターに付き合うほどの余裕はなかった。

「しかも、スポーツマンが素手で人間殴ってもいいのかよ?」

 スポーツマン、という言葉には、あざけり以上の感情が含まれていた。アリゲーターの中にも、何かしらの屈折したものがあるのだろう。

「……スポーツマン、か」

 坂下は、それにようやく答えた。スポーツマンという言葉に、反応したのだ。

「そうだ。素手で人間殴るってのは、俺らと一緒で、単なる不良だろ?」

「……ふっ」

 坂下は、アリゲーターの幼稚な論理展開に笑ってしまった。

「……アマ、なめんじゃねえ」

 その笑いが、よほど気に喰わなかったのだろう、アリゲーターは怒りを殺しきれないという顔で、しかし、それでも冷静に構えていた。

 腰を落とし、完全なタックルの構えだ。

 もう一度倒してしまえば、勝てると考えているのだろう。それは、間違った考え方ではないだろう、一度は坂下を追い込んだのだから。

「ひんむいてその貧相な胸じっくりおがんでやるぜ!」

 怒鳴っているわりには、すぐに攻めて来ない。じりじりと距離を測りながら、坂下との距離をつめて来ている。

 この動きが、ただのケンカ屋と違うところだ。性根はどう見ても腐っているように見えるが、ケンカのこととなるといくらでも慎重になる。

 坂下は、見下ろすようにアリゲーターを見ていた。構えも取っていない自分を、こうまでも警戒しているこの男を見ると、いじめるのもかわいそうか、とさえ思う。

 だから、ちゃんと構えを取ってやった。

 先ほどと、何の変わりもない。左半身で、軽く拳を握る構えだ。タックルへの対処など、何もそこには感じられなかった。

 自分がタックルの構えをしているにも関わらず、何の変化もない坂下を見て、アリゲーターが動揺しているのが、坂下にも伝わってきた。

 動揺するのはいいけど、それを感づかせるなんて。

 罠があるのでは、とか、いや、考えすぎだ、とか、アリゲーターの頭の中を色々なものがグルグルとまわっているのさえ、見えて来るようだった。

 それでも、手を出すしかない、とアリゲーターはすぐに決心するだろう。時間が経てば経つほど、坂下のダメージは回復していくのだから。

 スポーツマン、スポーツマンか。

 坂下は、笑いたくなった。その後の「不良と同じ」などという発言を考えると、それこそ爆笑ものだ。

 なるほど、今までの結果を見ると、確かに坂下が押され気味だ。それがケンカ屋とスポーツマンとの差だと言われれば、見当違いもいいところだが、反論する余地もない。

 しかし、その後の不良と同じと言ったのは、笑い話もいいところだ。さっきスポーツマンと言ったばかりではないか。何とか挑発して冷静さを無くさせようと四苦八苦しているのが目に見えて分かる。

 だいたい、前後で矛盾した内容を置いておいても。

 ならば、これをどう説明するつもりなのだ。

 意を決したのだろう、アリゲーターがこちらに飛び込んでくる気配を感じた坂下は、しかし変わらずに構えている。

 坂下の拳が、獲物がこちらに来るのを待ちきれないとばかりに、それとも出番が待ちきれないとばかりに、熱くなっていく。

 目の前にいる、坂下よりもよほど体格のいい、しかし、坂下から見てみれば、矮小な男の動きを見ながら、坂下は思う。

 この、圧倒的な実力の差を!

 

続く

 

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