ランは、観客の一人として、押し黙って坂下の試合を見ていた。
チームの人間が手を尽くして手に入れたマスカの上位ランキングの試合のチケットを、皆快くランに渡してくれた。
強い者の試合を見るのは十分練習になるし、何より、今は師と仰いでいる坂下のマスカ初参戦の試合だ。ランも、皆の好意に甘えて今日は観客としてここに来た。
この特殊な試合場に、武器を使うアリゲーター、どちらの条件も、坂下にとっては不利なものだった。
事実、坂下はあわやというところまで、追い込まれた。そこから何とか抜けたとは言え、客観できる状況ではなかった。それほど、ずっと押されていたのだ。
ここまでの試合結果を見ても、ランは坂下を疑ったりはしなかった。武器がないよりは、武器が強いというのは、ランの頭の中では覆せない常識であり、坂下が素手を薦めたとは言え、その坂下の言を疑う訳ではないし、それに従うつもりだが、武器を持って押される坂下を責める気はなかった。
それでも、坂下が勝つだろうとランは素直に信じていたのだ。武器によって不利にされたぐらいでは倒せないものが、坂下にはあると、今まで見てきて肌で感じていたのだから。
しかし、どうやってヨシエさんは逆転するつもりなのか。
条件も悪いし、ダメージも受けている。今までのやり合いで見たところ、坂下とアリゲーターの間には、それほど大きな実力の差はないように見える。
しかし、そう考えられたのも、坂下がナックルガードを外すまでの話だった。
パシャリ、とナックルガードの片方が水の上に落ちた瞬間に、ランは何か得体の知れないものを感じて、身を震わせた。
そして気付いた。さっきよりも、歓声の音が、わずかではあるが落ちていることに。見渡すと、見えるだけでも何人かの人間が、寒さに震えるように、身を震わせていた。
それが気の所為ではないことは、冷静にアリゲーターを見ればわかる。明らかに、さきほどとは大きく違っている。アリゲーターは、ただナックルガードを外した坂下に、あせっているようでもあり、恐れているようでもあった。
坂下は、そんなまわりの反応を知ってか知らずか、もう片方のナックルガードも外し、捨てる。
……ああ、わかった。
両の拳が裸になったのを見て、ランはやっと何がそんなに怖いのか、そう、自分は怖いのだ、を理解した。
ナックルガードという拳を守るものを外した坂下は、不利になっているはずなのに、まったくそんな気配がない。それどころか、見ていると、寒気さえ感じる。
確かに、それは素手だ。手には、何も持っていない。覆うものも何もない。そして、坂下はそれで相手を殴るつもりだ。
しかし、それは、まるで抜き身の真剣の様。
ただ横で見ているランでもそこまで感じるのだから、相対峙しているアリゲーターは、一体どれほどのものを突きつけられているように感じているのか。
ナックルガードさえ、単に坂下の恐るべき切れ味を殺すためにつけていた、単なる鞘であることを、ランはやっと理解した。
そして、自分と戦ったときも、それはもちろん多分に手加減はしていたろうが、それにしたって、十分の一さえ実力を見せていなかったことを、そして今の今までそれを見せずに来た坂下の実力の奥底を、畏怖を通り越して、ただ純粋に、凄いと思った。
ラン本人は気付いていなかったが、そのときのランの瞳は、まるで夢見る少年のようにキラキラと輝いていた。強い強いとは思っていたけれど、そして強さの見本であると、確かに心底思っていたけれど、それでも足りないほどに、強く強く憧憬の念を感じた。
その刃の先を感じて、焦ったのか前に誘われたのか、アリゲーターがうかつとも言える動きで坂下に肉迫する。それでも、横で見ているから見えるだけで、もしランがやられれば、反応すらできずに地に伏すのは間違いないスピードがある。
立っている状態では、受けには坂下に一日の長があるようで、アリゲーターの攻撃を、難なく坂下はさばく。その坂下の刃に当たって、アリゲーターの腕が怪我をしない方が疑問に思うほど、その拳からは拳気とも言えるものが放たれていた。
坂下は、タックルを狙うアリゲーターに合わせて、肘をふりあげ、落とす。
当たる、と思ったときには、すでに坂下の肘は空を切っていた。アリゲーターが、タックルを止めたのだ。
さらに、坂下からは見えない位置、肩の後ろを回して、アリゲーターは拳を振るう。これも外で見ているから分かるだけで、実際にやられれば、反応すらできないだろう。
坂下は、それが見えているのか見えていないのか、起死回生のアッパーをアリゲーターのあごを狙って放つ。
当たれば、間違いなくその刀はアリゲーターを断つ。
しかし、坂下の拳をアリゲーターは避け。
坂下の足下の水がはじけ飛ぶような音を立て、坂下の拳が、加速した。
ガキンッ!!
拳と、ナックルの衝突。しかし、負けたのは拳はなく、ナックルだった。
何が起こったのか、ランにも理解できないまま、坂下はそんなことを無視して、自分が打ち勝ったその拳の甲に、さらに返す刀を入れる。
手の甲は、非常にもろい。さらに、頼みの綱であるはずのナックルは、手の前面にしかなかったため、手の甲までガードはしてくれなかった。そして、坂下ほどの空手家が、本気で相手の手の甲を打ち抜けば。
簡単に、相手の拳は砕ける。
グワシャッ!!
嫌な音が響いた。しかし、その残酷とも思える光景を、ランは歓喜しながら見ていた。
坂下の拳と、アリゲーターのナックルがぶつかったとき、アリゲーターの手首が、あらぬ方向を向いていたのを思い出し、ランは何が起きたのか、自分ながらに理解した。
アリゲーターは、ナックルをつけているので、拳を握り込む必要がない。というより、ほとんど握り込まない。その方がスピードが上がるからだ。
威力は、スナップと、ナックルの硬さが出してくれる。実際、それでアリゲーターは今まで勝ち上がってきたのだ。
しかし、拳を握り込む必要がないということは、どうしても、手首の固定が弱くなるということだ。
そもそも、スナップを重視するアリゲーターは、むしろ手首は柔らかく構えている。しかし、フック系は、手首を固めないと打てない。
肩の後ろをまわすそれは、系統的にはフックだった。
当たる瞬間ならば、確かにアリゲーターは手首を固めていたろう。しかし、坂下はさらに速度を上げ、アリゲーターが手首を固める前に、拳を打ち付けた。
日頃から手首を鍛えていないのに、さらに半分固めた状態で、手首に物凄い衝撃を受け、アリゲーターの手首は、あっさりと限界を超えた。
後は、ひるむアリゲーターを横目に、その拳に追い打ちをかけてやればいいだけだ。
ナックルとでも、相手が体勢十分でなければ、十分に打ち勝ち、拳も壊れない自信がなければできない作戦だが、坂下にはそれがあった。
そして、ナックルに頼っていたアリゲーターには、それをどうこうする力はなかった。
坂下は、ランに言った言葉通り、その拳の魂で、はっきりと、武器に正面から打ち勝って見せたのだ。
パパズバンッ!!
拳をつぶされたアリゲーターの意識を、坂下はワンツーからのハイキックで、あっさりと刈り取る。
坂下よりも体格もいい、身長もある身体が、ハイキックを受けたと同時に、一瞬動きを止め、そのまま前に倒れる。
アリゲーターが水の上に落ちる前に、坂下は服をつかんでアリゲーターが倒れるのを阻止、しかし、そのまま仰向けに投げ捨てた。
うつぶせに倒れてしまえば、いかに水に厚みがなくとも、窒息するかもしれないと思ったのだろう。えらく余裕のある姿だ。
まるで……
それは、ランでも怖いと思う考えだった。
まるで、今まではただ遊んでいただけだと言わんばかりの、余裕。
本当にそうならば、いや、もう信じるしかない。真面目不真面目はあろうが、坂下は、本気を出していなかったのだ。
それを証明するように、坂下の両の拳に似せた刃が、水に濡れて、照明に照らされて光っていた。
続く