世の中は広い、とその光景を見ながら、私は考えていた。
道場の真ん中でぐったりと倒れているのは、マスカランキンク十五位、ビレン。本名は健介と言うらしいが、あまり興味はない。
まあ、とにかく、マスカの十五位だ。現在三十三位の私、その順位だって、ぎりぎりで勝って得たものなど、相手にはならないだろう。
そのビレンが、どうしてか道場の真ん中でへたばっている。ヨシエさんにしごかれた、というのならそれも納得できるが、しかし、さにあらず。
「く、何で勝てねえ……こんなバカな話が……」
松原さんにも負けて、最近負けが込んでいるらしいビレンは、そのままうちの部活に顔を出した。というより、松原さんに言われたらしい。
油断というか、そもそも普通のスポーツマンには負けない気でいたのだろう、意気揚々とそこにいた男と試合をして。
今倒れているのは、ビレンの方だった。しかも、これがもう何度目かわからない。
根性というか、残った見栄で何とか立ち向かおうとしているが、正直、今のぼろぼろのビレンになら、私だって勝てるだろう、そこまでダメージも疲労も大きい。
最初は、まだある程度勝負になっていた。むしろビレンの方が押していたぐらいだ。
しかし、それも一分経ち、二分経つぐらいには、すでに逆転していた。
武器を持っていないから、という理由はつけられる。ビレンは、飛び道具をいつも持っており、それで相手を牽制して隙を作るのを得意としている。だから、武器の使えない状況では、実力が全部出せないのは嘘ではない。
それに、体力の違いもある。毎日、血反吐を吐くほど鍛えている人間と比べれば、不摂生な不良は、どうしても体力的に差が出る。時間が経ってビレンが押されるのも、何も不思議なことではないのだ。
しかし、それも単なるいい訳にしか聞こえない。そもそも、武器がなくとも、ビレンは自分よりはよほど強いし、体力がないのなら、体力の足りる間に相手を倒さなければならないのだ。
しかし、いい訳にしか聞こえない理由は、相手にある。
「らぁっ!!」
体力の回復を待っていたのか、さっきまで倒れていたビレンがいきなり立ち上がり、気合いと共に拳を繰り出す。自分なら、対処できないスピードだ。
ガッ、とあっさりとその拳は、相手に受けられた。
そして、天を向いていた拳が、そこからビレンの頭部まで一直線に、打ち下ろされる。
スパァンッ!!
今まではそれでも何とか打点をずらしていたビレンだが、その一撃は、そのずらそうとする意志さえ一緒に巻き込んで、ビレンのあごを打ち下ろした。
拳が一直線に打ち下ろされる、私から見ても綺麗なパンチだった。
どさり、と、今度こそビレンは沈黙する。
「ふーっ」
相手は、息を吐いて残心し、ビレンの意識が完全に断たれたのを確認してから、いきなり、陽気にしゃべりだした。
「いやー、久しぶりに真剣勝負と言える戦いができましたよ。俺もついつい本気で向かって行ってしまいました」
はっはっはっは、と陽気に笑う姿は、正直、バカっぽく見える。
「でも、完全KO制を挑まれたのでやりましたが、良かったんですか?」
悪びれた様子はさっぱりないものの、一応とばかりに確認するその男に、ヨシエさんが手を振る。
「あー、いいのいいの。根性鍛え直すつもりだから」
倒れたビレンに、横の方で御木本が手を合わせていたりするが、とりあえず部員はさっぱり気にしていないようだ。それも凄い話だと思う。
「にしても、寺町。あんたの打ち下ろしの正拳、また強くなったようだね」
「それは、もうエクストリームの本戦まで時間もないですしね。がんばらないと、強い相手と戦う機会を逃してしいますから」
寺町とエクストリームという言葉で、私はやっとその人物が誰かわかった。ゼロに教えてもらった、エクストリーム22歳以下の部の、準優勝者だ。
なるほど、強い。ビレンに圧勝するのもそうだが、技がそもそも凄い。得意技なのだろう、右腕をいつも上に構えて、そこから打ち下ろされるパンチは、驚嘆に値する。技一つで言えば、ヨシエさんよりも凄いのではないだろうか?
「でもまだまだ、坂下さんには勝てる気がしませんよ。北条選手になら、今すぐだって勝つ気でいますけどね」
「へえ……珍しい。寺町、あんた一応負けたのを悔しがってるんだ」
それが珍しいというのは、一体どういう人間なのだろうか? 勝敗に絶対的にこだわる私としては、全然わからない話だ。
「悔しい? いえ、そんな訳ないでしょう。北条選手になら、勝つ自信はありますが、もう少し待った方が、彼は強くなる気がするんですよね」
「部長はいつもそれですね。ちょっとは負けて悔いて下さいよ」
横から、長身の少年が口を挟む。
「主将と呼べと言っているだろうが、中谷。もっと強い相手と戦えなかったというのなら悔いもするが、決勝まで行けば、それもないだろう?」
「そうなんですが、そんなことを言うのは部長ぐらいのものですよ」
マスカにもたまにいる、強い相手と戦えるだけで本望という人種なのだろうということはわかるが、ここまで極端な人間は少ない。
そもそも、強くなるのは、勝つためであり、それを第一としない人間が格闘技などやっているわけがないのだ。勝ちよりも強い相手と戦うことを優先する選手など、マスカにだっていない。
そして一番凄いと思うのは、それが負け惜しみに聞こえないことだ。本心からそんなことを言っているというのは、驚くに値するバカだ。
「ほら、ラン」
「お、押忍」
いきなりヨシエさんに話しかけられたので、私は焦ってしまった。バカとか思っていたのを、見透かされたのだろうか?
「こういうバカは、あんまり見習わないように」
……
ヨシエさん公認のバカは、はっはっはっは、と何ら気にした風もなくバカっぽく笑っている。むしろバカ丸出しで笑っている。
「新入部員の方ですか?」
中谷と呼ばれた好青年が、私に笑いかける。別に男の顔どうこうを言うつもりはないが、バカよりは何倍も好感度が高い。
「初めまして、中谷です。うちの部長がたまにご迷惑をかけると思いますが、無視してくれればうるさい以外は被害はないと思います」
「だから主将と呼べと……」
と、会話が続こうとしたときに、道場の入り口から、ひょいと顔を出す人間がいた。
「あ」
「お」
皆の目がそちらを向いて、その人物は、そこのバカと目が合ってから、どこか気まずい顔を一瞬したが、しかし、すぐに気を取り直したのか、ヨシエさんの方を見る。
「よう、葵ちゃんに言われて、健介の様子、見に来た……」
と、そこで倒れて動かないビレンに目をやって。
「まあ、やっぱりと言うか何と言うか……」
私とヨシエさんの知り合うきっかけとなった、というより、最初は私の標的であった、藤田浩之は、ビレンが倒れているのに、どこか納得して、苦笑しながら、道場にあがってきた。
続く