ざわつく観客の中に、浩之は落ち着かなげに立っていた。
あの、いきなりリヴァイアサンに邪魔されたデート、と言っても、邪魔された後もきっちりと楽しんだのだが、の次の日。
まさか、そんなに早くに試合があるとは思っていなかったのだが、デートの終わりに、「明日試合だから」と言われて、急遽練習を休んで観戦に来たのだ。
本気で時間がなく、結局リヴァイアサンのことも調べる余裕はなかった。
浩之とて、焦っていない訳ではないのだ。
綾香は、それは見た目は物凄い美少女だし、気安い性格なので、当然男にはもてるとは思っていたが、そういう影が、今のところさっぱり見えなかったので、浩之もそれについては大して気にもしていなかったのだが。
まさか、あんな唐突に、そして強引に来る男がいるとは、まさか思わなかったのだ。
綾香の反応を見れば、リヴァイアサンにチャンスがある訳はないのだが、しかし、それだからと言って、浩之が安心できるものでもない。
この試合、勝っても負けても、綾香とリヴァイアサンの関係には何も起きないであろうし、何より、綾香が勝つのは最初から決定しているようなものだ。
それでも安心できないのは、どうしようもない独占欲というものなのだろう、と理論的には考えられるのだが、しかし、それで不安が止まる訳でもない。
こうなって初めて、浩之も自分で綾香のことをどう思っているのか意識していたが、反対に、例えば葵に対してリヴァイアサンが同じような態度を取れば、やはり気に喰わないだろうというのも予測でき、自分の身勝手さに多少嫌気がさしたりもする。
それに、試合場も、あまり浩之の精神を落ち着かせてはくれないものだ。
高くて頑丈な金網に囲まれたそこは、試合場というよりは、牢獄に近い。上は空いているので、綾香ならあっさりと抜けられる場所ではある。
問題は、地面だ。
そこには、硬い地面はなかった。あるのは、砂。
砂場のような砂ではない。もっと目の細かな、砂漠にあるような砂だ。
試合場の地面は、全てそれで覆われていた。それが何を意味するのか、わからない浩之ではない。
ここでも、マスカは、綾香を倒すつもりで、綾香に不利な試合を選んできたのだ。
もちろん綾香はオールラウンダー。打撃だろうが組み技だろうが、誰がかなうものかと思うほどの技量を持つ。
しかし、打撃系と組み技系で言えば、明らかに打撃系に寄る。それは体格上、単純な力勝負、体重勝負になる可能性のある組み技が、綾香にとって不利だからだ。
柔らかい地面というのは、つまり投げられても痛くない場所であり、そう考えると、組み技にとって不利なようにも見える。
しかし、そうではないのだ。柔らかい地面は、ふんばりを殺し、素早い移動や、鋭い踏み込みを無くす。その結果、打撃系は、鋭い踏み込みからの一撃も、捕まらないための軽やかなフットワークも使えなくなってしまう。
足場が悪いのは、体重の軽い格闘家の利点を、大きく殺すのだ。
もちろん、同じように体重が重い人間は、余計に足を取られる訳だが、それをパワーでカバーできる。何故なら、相手の動きが遅ければ、掴むことができるからだ。
一撃必殺の打撃は、上半身のみでは出ない。足場の悪さは、つまり下半身を殺し、上半身のみで打撃を打たなければならない状況を作り出し、打撃を、殺す。
リヴァイアサンは、打撃しか浩之に見せていない。しかし、その点を考えなくとも、体格は綾香を遙かに上回る。
同じ不利なら、足場に関係ない体格という利点がある方が有利。
……まあ、俺の考えなんて、休むに似たりってもんなんだろうがな。
不安を打ち消す、さらなるものに、浩之は苦笑した。どこまで浩之が不安になろうとも、それを上回る「もの」が、あるのだから。
足場なんて関係ない。不利なんて問題ない。
来栖川綾香は最強だ。俺みたいなザコが気にするような問題じゃない。
それはそれとして、とりあえず応援はするつもりだ。綾香は平気でも、見ている浩之はたまったものではないのだ。応援ぐらいさして欲しい。
そのとき、試合場に、一人の男が入って来る。赤いサングラスをかけた、肩書きも人相もうさんくさい男、赤目だ。
「長らくお待たせしました!!」
オオオオオォォォ、とその声だけで、観客達が沸き上がる。人数は大したことがないはずなのに、その熱気は空気を大きく揺らす。
「マスカレイドこそ、最強! ここにいる皆さんも、そう思って来たことでしょう!」
赤目が、おおげさに手を広げながら、観客達に語りかける。
「何も根拠無き話ではなかった! 現に、今まで、マスカは負けなかった。勝ちに勝って、また勝って来た! しかし!!」
マスカは一度言葉を切る。と同時に、観客達も押し黙った。
「たかが一人の少女に、クログモが負け、バリスタが負け、非公式ながら、バタフライさえ討ち取られました!」
バタフライの話は初めて聞く者もいたのだろう、一気にざわめきが大きくなる。それでも聞いた者もいるようなのは、さて、本人が言いふらしたりはしないだろうから、どこから漏れたものなのか。
「いや、たかが、などと相手を貶める言葉は必要ないでしょう! 彼女は、掛け値なしに強い! 悔しいかな、倒された誰よりも強い!」
相手を一度大きく持ち上げて、そして、落とす。その前準備であることを、浩之は感じていたが、何も文句は言わなかった。
「だが、まだ勝ち誇るには早い! マスカには、まだ猛者が残っている!! まさか彼が出るとは予測できなかったが、しかし、確実に、これで終わりでしょう!!」
そうだ!そうだ!そうだ! と観客達の声が重なる。まるで打ち合わせをしてきたかのような連帯感。ここでは、浩之の方が少数派なのだ。
「さあ、それでは登場してもらいましょう! マスカの自信を打ち砕いてきた、美しき悪魔!」
ふと、浩之は疑問に思った。
近くに、控え室のようなところはない。しかし、綾香の姿はみえなかった。
「エクストリーム、高校女子の部、チャンピオン、来栖川、綾香ぁぁぁぁぁ!!」
赤目はそうコールしながら、素早く試合場の外に出る。そして、扉の鍵を閉めた。
……
数秒の沈黙。そもそも、赤目が出た扉以外に、試合場に入り口はないのだ。
さらに、数秒たって、そろそろ観客達が不審に思う前に、それは、来た。
ヒューッ
風を切る音は、ほんの一瞬。
唯一開いていた、金網の上。そこから、スカート姿の少女が、落ちてきた。
ズサァッ!!
砂をまき散らしながらも、軽やかに両脚で試合場に着地すると、思い出したかのように、ひらひらと舞うと言うよりは、完全にめくれ上がっていたスカートを両手で押さえる。
ミニのスカートの中は、スパッツであり、残念ながら期待するようなものは見えなかったが、それでも、十分に派手な演出で。
マスカにとっての悪魔、来栖川綾香は、試合場に降り立った。
続く