綾香の身体が、槍で突き上げられた死体かのように持ち上がる。
しかも、リヴァイアサンは綾香を片腕で持ち上げていた。
この中には、バリスタとの試合を見た観客も多い。その、バリスタのタックルではね飛ばされたときのような派手さはなかったが、しかし、どちらがより深刻なダメージを与えたかについては、皆一致して、今回と答えるだろう。
それほど、綾香がゆるりと持ち上がる姿は、寒気を呼ぶ、恐怖があった。
その一撃で、ダメージを受けた後でさえ動きのあるはずの綾香の動きが、ぴたりと止まる。死体そのままかのように、自分からはぴくりとも動かず、リヴァイアサンのされるがままになっていた。
「綾……」
浩之の声が、最後まで発音できずに止まる。例えそれが最強と信じた綾香であろうとも、その一撃は深刻だ。見ていても、それはわかる。
決まった、誰の目にも明らかな結論だ。それを信じていない者がいるとすれば、それでも希望を捨てきれない浩之と、まだ止まろうとしないリヴァイアサンのみだったろう。
リヴァイアサンは、綾香のお腹から腕を抜く動きを、そのまま勢いに変えて、右の一撃を、上から振り下ろそうと動いていた。
例え、前進の力がなくとも、リヴァイアサンの腕は、それこそ凶器。下手な木刀の一撃よりも強いだろう。動きの完全になくなった綾香に、避けられるスピードでも、耐えられるダメージでもない。
「綾香ぁっ!!」
浩之は、喉で止まろうとする声を、無理矢理はき出した。浩之の声でどうこうなるものではないのはわかっているが、しかし、その声で意識を取り戻す可能性も、ごく微量であろうとも存在する。ならば、できることをするまでだった。
それに、効果がまったく無かろうと、浩之は恐怖で止まろうとする身体を叱咤して、叫ばずにはおれなかったのだ。それこそ、浩之が綾香をそれでも信じている証拠であるのだから。
リヴァイアサンに腕を抜かれ、宙に残された綾香の身体めがけて、リヴァイアサンは腕を回す。その回転が生む力こそ、リヴァイアサンの打撃の威力の神髄。
右腕が、うねりをあげて振り下ろされ。
綾香の身体に、一ミリとて触れることができなかった。
忽然と、綾香の身体がその場所からかき消え、リヴァイアサンの身体が泳ぐ。
そう見えるほど、綾香の動きが、否、この場合は、リヴァイアサンの動きが、常軌を逸したものだったということだ。
浩之は、それを今度はちゃんと目で捉えていた。宙にあったはずの綾香の身体が、まるで宙を自在に動けるかのように、リヴァイアサンの下に向けて、かなりの速度で動いたのだ。
種を明かせば簡単なこと。綾香は、リヴァイアサンの引き抜こうとしていた左腕をつかんで、その腕をたよりにその場から動いたのだ。
リヴァイアサンの打撃が、左右の振りを利用していることを理解しての回避策だった。右が前に出れば、左が後ろに下がる。そうやって、リヴァイアサンは威力をだしているのだ。
だから、右を打てば、左が下がる。その下がる腕につかまれば、労せずしてその場から動けるということだ。
もちろん、勢いよく引き抜かれた左腕に反応でき、かつそれを掴むことができ、さらに下がるスピードに振り落とされないことができなければ、できない話ではあるが。
綾香は、それをやってのけて。
さらに、その上を行く。
「くっ!!」
気付いた瞬間に、リヴァイアサンは左腕を綾香から引き抜いていた。さっきの、次の一撃のための動きではない。まさに、回避するために、攻撃を完璧に捨て去って、さらに、位置の有利不利などを気にする余裕もない、「逃げ」だった。
いや、リヴァイアサンでなければ、決まっていた。完全に手遅れになる前に気付き、そして逃げる方法を考え出し、その行動を取れたリヴァイアサンを、ほめるべきなのだ。
ただ後ろに下げるだけならば、その勢いにさえ手を放さなかった綾香だったが、完璧に逃げる気で、理にかなった腕のひねりで逃げられた以上、綾香も掴んでいることはできずに、リヴァイアサンの腕を逃がす。
ざっ、と綾香は軽く砂の上に降り立ち、しかし、立ち上がろうとして、すぐにはそれを果たせなかった。
それはリヴァイアサンとて同じ事。後の動きなどまったく無視して身体を引き抜いた所為で、尻もちをつくように倒れてしまったのだ。ただし、こちらはすぐに立ち上がることができたが、少なくとも綾香を追撃する余裕までは生まれなかった。
綾香の動きが大きかったので、何が起ころうとしていたのかを、浩之は理解することができた。しかし、もちろんそれは推測の域を出ない。というより、リヴァイアサン以外の誰も、瞬間にそれだと判断できた者はいまい。それほどに、綾香の動きが素早かったのだ。
ダメージと何とか折り合いをつけたのか、綾香はゆっくりと立ち上がる。リヴァイアサンは、鋭い目つきで、しかし倒れた綾香を攻撃することはなかった。
綾香は、リヴァイアサンの左腕にしがみつき、リヴァイアサンが左腕を後ろに振る勢いを利用して、自分の身体を腕を中心に反転、リヴァイアサンの腕にからみついたのだ。
あのわずかな時間に、綾香はリヴァイアサンの左の肘を、自分の脚で挟み込もうとしていた。
見たことがなければ、浩之も思いつく技ではなかった。それよりも多少変形しているが、それは、どこかのふざけたプロレスラーや、兄弟子が見せた、飛びつき腕逆十字だった。
後少し奥に入れば、決まっていた。そして、決まってしまえば、どれほどリヴァイアサンが腕を鍛えていようと関係ない。
相手の肘の健を伸ばす腕逆十字固めは、決まってしまえば、どんなパワーを持ってしても返すことはできない。マスカであれば、何かしらの武器を使ったりしてどうにかできることもあるだろうが、綾香がそんな余裕を相手に与えることはないだろう。
相手には、腕を壊されるか、ギブアップするしか手段はない。
リヴァイアサンは、だから逃げるしかなかった。最大のチャンスであっても、そこから攻め込むことはできなかったのだ。そんなことをすれば、綾香ならば、絶対にリヴァイアサンを仕留めていた。
リヴァイアサンの腕に捉まって、飛びつき腕逆十字に入るまでの一連の動きは、さっきまで深刻なダメージを受けていた人間とは思えない動きだった。
そんなことはないかもしれないが、本当に、浩之の叫びで意識を取り戻したのかもしれない。実際には、そんなことはないだろうが。
ダメージは、抜けきっていないどころか、十分綾香の動きに支障があるほど残っているはずだ。立ち上がるにも時間を置かなければならなかったところを見れば、一目瞭然だ。
しかし、リヴァイアサンには手が出せない。さっき、ダメージを与えたはずの次の手で、一瞬とは言え窮地に立たされてしまったのだ。誰であろうと警戒する。
「ふん、油断も隙もあったもんじゃねえ。いろんなやつと戦って来たが、飛びつき腕逆十字なんてやられそうになるのは初めてだぜ」
さも楽しそうにそう言うリヴァイアサンだが、それが演技ではないのか、と浩之は疑う。綾香の凄さを目の前にして、心から楽しめるほど、この男は強そうではあっても、バカそうには見えなかったからだ。
まあ、それでも引き下がるほど臆病にも見えないのは、事実ではあったが。
「……のに」
「ん?」
綾香の押し殺した声は、誰にも届かなかった。唯一、浩之だけが、綾香が押し殺したのが、声ではないことに気付いていた。
「今ので負けておけば、良かったのに」
今度は、声は殺さなかった。相変わらず、殺しているものはあったが、しかし、それは浩之の他には、誰にも伝わらない。
「ふふん、残念だったな。次はあんな技仕掛けさせねえよ」
「違うわよ」
やっと完全に殺した綾香は、いつも通りと言うよりも、いつもよりもよほど鼻で笑った口調で、しゃべり出した。
「今のであんたが負けておけば、あんたもこれ以上痛い目に遭わなくて済んだのにって言ったのよ」
「さすが、言うね!」
リヴァイアサンは、それを普通の皮肉や雑言として聞き流した。むしろ、言い合いを楽しんでいるとさえ思ったのかもしれない。
しかし、浩之には、まったくそんな風には聞こえなかった。綾香が、何を殺していたのか、十分に理解できているから。
カンペキに、殺意を殺して綾香は変わらずに笑う。
続く