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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(116)

 

「じゃあまあ適当に座って」

「……押忍」

 小さく返事をして、ランは座布団の上に座った。坂下も、向かい合うように座りながら、ちょっと苦笑する。

 こんなときまで、押忍って言わなくてもいいだろうに。いや、それを覚えさせたのは自分か。

 挨拶は、いつもの慣れが出る。ずっと空手部で鍛えていたランに、その口調がうつったとしても不思議ではないどころか、教育が行き届いているということだ。

「……夜遅く、本当にすみません」

「いいっていいって。父さんは仕事だし、すちゃらかな母親は飲みに行ってるから、当分帰って来ないしね」

 両親がいない状況で、もし男が訪ねて来たのなら、家には上がらせない時間ではある。もっとも、こんな時間に坂下の家に来るような男はいないだろうが。

「それで、私に話があるんじゃないのかい?」

「はい」

 どちらかと言えば、喉の奥につまったような声の出し方をするランにしては、珍しく通る声で、はっきりと答える。

 へえ……男子三日会わざれば刮目してみよ、とか言うけど、たった数時間か。

 女子数時間会わざれば刮目してみよ。

 今日、部活中に見せていた、おどおどして、しかしどこか安心したような、情けない表情とはうって変わって、やる気の感じられる目だった。

 ランは、二三回呼吸を整えると、坂下に向かって、頭を下げた。

「今日は、すみませんでした。明日から、心を入れ替えます」

 簡単な謝罪だったが、言葉よりも何よりも、ランの、どこかしら今まであった、「逃げ」の心が見あたらない真っ直ぐな目を見れば、当然坂下はその言葉を信じない訳はなかった。

 だから、これ以上の会話は、単なる後輩虐めでしかないのだろうが。

「次の相手……ランが昔負けた相手だってね」

 一瞬だけ、ランの目の中の何かが揺れる。仕方のない話だ。負けたのは事実。そして、それから差が縮まっている保証もない。

 数時間で克服されては、坂下だって立つ瀬がない。いや、結局、勝てるまでは克服などできないのだから。

「……はい、でも、次は負けません」

「そうは言うけど、向こうは強いんだろ? まだまだ私の教育も付け焼き刃。どれぐらい役にたてるか、怪しいものだよ?」

 ランは、鋭さならば誰にも負けぬであろう坂下の目を真っ向から見て、強く頷いた。

「勝ちます」

「……ふんふん、いい顔つきしてるじゃないか」

 心揺れるのは仕方ない話で、そこまで坂下は責めるつもりなどない。ようは、そこからどれだけ恐怖を我慢して前に出られるかだ。そして恐怖を、プラスにして動けるかでもある。

 ランは、確かに一般人よりは強かっただろうが、格闘技の実力もそうだが、それよりも、精神的なものを言えば、まだまだ未熟だ。

 しかし、それを超えるまで行かなくとも、超えたいと思う気概がなくては、次のステップなど進めはしない。

 負けた相手に、次は勝つ。誰でも目標にするものだが、精神的に気押されれば、リベンジなど夢のまた夢だ。

「まさか、こんなに短時間で、一人で乗り越えるとはね」

 ランは、弱くはないし、才能がないとも言わないが、それでも、飛び抜けている訳ではない、と坂下は思っている。自分もそうだし、葵もそうだ。飛び抜けている、しかも極端に飛び抜けているのは、綾香なり、浩之のような人間を言うのだ。

 ましてや、ランはまだ高校一年生の子供。坂下とはたった一年の差だが、しかしその一年は大きいし、個人の資質から言っても、まさかこんな短時間で精神的に成長できるとは、まったく思っていなかった。

「ほめたげるよ、ラン。私の助けもなしに……」

「あ……」

 と、誉めている先から、ランが下を向いてしまった。

「……ラン?」

「……ええと、あの、その……」

 まだ付き合いは短いが、ランの性格を、けっこう坂下は理解しているつもりだった。そこから導き出されるランの行動としては、声をあげて狼狽するなど、いささか珍しいものだ。

 狼狽とか不安とか、顔に出たとしても、行動には出ないタイプだと思っていただけに、さすがに坂下はひっかかりを覚えた。

「どうかしたのかい、ラン?」

 言葉のみなら普通だが、口調から言えば有無を言わせぬ、坂下の質問に、ランは何故から身体を縮こませた。さっきまでの、不安や恐怖に打ち勝とうとする態度とは、大きくかけ離れている。

「……あの、自力で、こんな気持ちになれた訳じゃなくて」

「……ああ、なるほどねえ」

 それを聞いて、坂下は少し納得できた。言っては悪いが、ランにしてはできすぎだと思ったのだ。

「でも、別に責める訳じゃないよ、それぐらい」

 自分以外に、精神的な支えをあまり必要としない人間も、もちろんいる。坂下はどちらかと言うとそうだし、綾香にいたっては、結局全部自分で乗り越えそうだ。

 しかし、葵に対する浩之とか、いい方向に向かう精神的な支えならば、坂下は大歓迎だった。頼るのはまずいが、相手の声が、姿が、存在が、力になるというのなら、これほど素晴らしいものはないとさえ思う。

 ……でも、レイカか誰かかな?

 ランのいるレディースの人間は、むしろランに精神的に頼っているような風すらある。マスカに出られるほど強いのだから、それも仕方ない話だとは思うが。唯一、姉であるレイカなら、精神的な支えとはなるかもしれない。

「正直、私としては納得できないんですが」

「ふむ?」

 確かに、心から納得している訳ではない、微妙な表情。しかし、まったく嫌かと言えば、そうとは取れない、何とも言えない表情。

「公園で、たまたま会った浩之先輩に、いきがかり上多少相談に乗ってもらうことになってしまいました。不本意です」

「げっ」

 坂下は、小さな声であまり上品とは言えない声を出した。

「負けた相手に情けをかけられるなんて、本当なら絶対嫌なんですが……今はそうも言っていられなかったので……」

 それは困ったことに、いや、そういうのに疎い坂下の目から見ているので、多少色眼鏡がかかっているとしても、不本意と言いながらも、まんざらでもないと思っているのでは、とうかがえる表情をするラン。

「あ、あの天然ナンパ男、綾香ならともかく、葵にまで手を出しておいて、まさかランにまでつばをつけに来るとは……いや、さすがに考え過ぎか? でも、あの男の場合、油断する要素ってのは全然ないから……」

「あの、ヨシエさん?」

 思わず口に出た独り言を坂下は慌てて飲み込んだ。せっかく精神的に成長できそうなのに、こんな危険な考えを聞かせる訳にはいかない。

 ランにその気があったとしても、少なくとも今は自覚があるようには見えないし、私の考え間違いの可能性もあるから、このままとりあえず放置がいいだろう、と坂下には珍しい様子見という選択肢を取って、不自然に会話を着る。

「気にしなくていいよ、ラン。了解、明日から、またきっちりと仕込むからね」

「はい、よろしくお願いします!」

 ランの気合いの入った声を聞いて、坂下は微妙な気分になるのだった。

 

続く

 

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