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最強格闘王女伝説綾香

 

五章・実戦(119)

 

「本当にありがとうございました」

 初鹿が深々と頭を下げたので、慌てて浩之は答える。

「いや、俺もごちそうになったから、おあいこでいいだろ?」

「そうですね」

 恐縮している浩之を見て、初鹿はクスッと、好意的に笑うと、頭を上げた。

「機会があれば、ファミレスなどではなくて、手作りの方をごちそうしたいです」

「あ、いや、機会があればぜひ」

「そうですね、機会があれば」

 携帯の番号も教え合わない。というか、浩之は今のご時世なのに携帯を持っていないのだが、連絡先さえ教えない。

 善意なのだろうが、純粋に好意を向けられているのはわかるが、わざわざこちらから連絡先を聞くのもどうかと思ったからだ。だいたい、それでは浩之がおっぱらったナンパの男達と一緒だ。

「ああ、それで、待ち合わせをしてるって言ってたけど、いいのか?」

 あれから、けっこうな時間が経っている。ただ世間話をしていただけなのだが、お嬢様に見える割には、案外に話しやすく、ついつい遅くまでなってしまった。

「もう遅いし、何なら、近くまで送ろうか?」

 それを完全な善意で言ってしまえるあたり、浩之がジゴロの才能というか、下地があるのは間違いない。もっとも、それがナンパと同じ行動だと気付いたとしても、結局浩之は送る提案をするだろうが。

「いえ、大丈夫です。大通りしか通りませんし、時間になれば迎えも来ますので」

「そっか。ま、気をつけてな」

 迎えが来ると聞いて、安心する。それに、別に浩之の助けがなくとも、ナンパ程度なら軽くあしらえるだろうというのは話をしてみて分かっているので、心配する必要はないだろう。

「はい、浩之さん、それでは、さようなら」

「ああ、またな」

 同じ街で生活しているのだから、また会うこともあるだろう、という気持ちで、浩之は「また」と言った。

 それを聞いて、少し惚けた顔をした初鹿だったが、すぐにニコリ、と柔らかな笑みを浮かべて、軽く頭を下げると、背を向けて歩き出した。

 浩之は、別に何を思った訳ではないが、その後ろ姿を観察していた。

 背中から見るとよく分かる。すっと背筋の伸び、歩く姿勢は綺麗だ。

 見たままのお嬢様で、習い事とか色々してるんだろうと思わせる。

 と、ふいに初鹿は振り返って、浩之がまだこちらを見ているのを見て、また微笑むと、再度頭を下げた。

 浩之が手をあげてそれに答えると、満足したように微笑み、今度こそ背を向けて、角に消えていく。

「……いい子だったな」

 年齢は、落ち着いた雰囲気を考えると、同い年か上そうだったので、子と呼ぶのはどうかと思うが、確かに話も面白いし、性格も良さそうな少女だった。

 男の浩之がおごられたことに、多少問題がないと思わないでもないが、浩之が万年貧乏なのは事実であり、向こうはお金持ちそうだった。

 ……まあ、手料理はともかく、おごられるのはなるべく断ろう。ヒモって言われるのは心外だしな。

 甲斐性はともかく、ジゴロの才能ありあまる浩之にしては、殊勝な考えだ。それをちゃんと守れるようならばいいのだが。

「……って、もうかなり遅くなっちまったな」

 スポーツ用の腕時計を確認して、浩之はつぶやく。

「ほんとね」

 ピシッ

 声と同時に、夜でも明るい街中なのに、空気が一変して凍り付く。

 頭の理解よりも先に、浩之は素早く動いていた。もし、ここで一瞬でも躊躇すれば、命はともかく、せっかく治った身体も危ないと身体が判断したのだ。

 素早く振り返りながら距離を取るが、とりあえず、追撃はなかった。

 さっき浩之が立っており、無防備に背中を見せていた場所に、彼女は静かに立っていた。

「こんな遅くまで何やってるかと思えば、私の知らない子と逢い引き? 余裕ねえ」

 顔は笑っている、声も笑っている。はたから聞けば、からかわれているようにしか聞こえない口調だ。

 だが、そこはまるでそこだけ異次元空間になったように、空気が違う。まったく関係ない遠くを歩く人間も、きょろきょろとおびえた小動物のように辺りを見回している。

 どんな人間にも、危険を察知する能力はあるのだなあ、と浩之は頭の端で考えながら、しかし、視線は彼女から離さない。

「よ、よう、綾香。こんな時間にどうしたんだ?」

「どうしたもこうしたも、そのセリフはこっちが言うべきだと思うけど?」

 いやまったく。責められるのは綾香ではなく自分なのだ。いや、別にやましいことをしていた訳ではないのだが、今の綾香にそんな言葉が通用するとは思えない。

「い、いや、さっきの子が、ナンパされてるのをたまたま見つけちまって……」

「だから、浩之がナンパしたって訳?」

「い、いや違うぞ。お礼にご飯をおごってもらっただけで……」

「つまり、ご飯につられてほいほいとついて言った、俺は悪くない、と」

 言葉を重ねるほど、いい訳じみていくのを浩之は自覚していても、どうしようもない。事実を述べたところで、綾香が許してくれるとは思えなかった。

 浩之が数瞬黙ったのを見て、綾香の口元が上がる。獲物を見て舌なめずりする獣のようだと思った。

「浩之?」

「は、はいっ!」

 優しく語りかけられて、余計に背筋に悪寒が走る。

 自分に伸びて来る細い指の手を見ても、浩之は恐怖で動けなかった。絶対絶命に陥った草食動物は、固まって動けなくなると言うが、自分がそんな経験をするとは思わなかった。

 ひたり、と綾香の手がほほにふれる。浩之は思わず、目を閉じた。

 ……

「……?」

 予測した痛みも、天地のひっくり返るような衝撃もなかった。

 恐る恐る目をあけると、綾香が仕方なさそうに笑っていた。

「もう、浩之。冗談よ、そんなに怖がることないじゃない」

「……じょ、冗談?」

「冗談よ。浩之のことだから、ほんとのこと言っているんでしょ? それだったら、許してあげるわ」

「……た」

 ……助かった。神様、ありがとう。

 藤田浩之、神様に本気で感謝した瞬間だった。

 さっきまで、殺意を押し殺していたように見えた綾香は、しかし、それどころか、ちょっと顔を赤らめて、目をそらす。

「で、でも、助けるのはいいけど、その後誘いに乗るのはいただけない……私だって、まったく気にしてない訳じゃないのよ」

 浩之の目の前で展開される、すねる綾香。

 大地震が起きて日本が沈むことになっても見られないと思っていた姿だ。

「綾香……」

 思わず、浩之は綾香を抱きしめようとした。それほど、浩之にとって、今の綾香はいとしいものに見えたのだ。

「だから……」

 綾香は、そんな浩之に気付いているのかいないのか、浩之をまっすぐに見つめると、にんまりと笑った。

「コブラツイストで許してあげる」

「え?」

 蛇のごとく浩之の身体を縦横無尽に走る綾香の身体。逃げる術など、浩之にはなかった。

 コブラツイスト、完・成!

「Nooooooo!!」

 コントの外国人みたいな叫びが、夜も深まる初夏の夜に、こだまする。

 藤田浩之、神様を憎んだ瞬間だった。

 

続く

 

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