「かはっ、ぐぇ……」
色気のないあえぎ声が私の口から漏れる。私に色気を求めている人間はいないだろうが、あまりにもあまりな声だ。
でも、仕方なかった。吐く寸前まで息が切れているのだ。吐かなかっただけ、まだましと言うものだろう。
今日はあまり食事が進みそうにないなあ、と思いながら、代わりとばかりに空気をむさぼる。
暗い公園の中に、また私はいた。
しかし、今回は前回のように、いじけている訳ではない。むしろ、精神的には生涯の中でも上に位置するほど元気だ。
それでも、今晩の食事は苦痛になりそうだった。
ならば、食べなければいいではないかと言われるだろうが、そういう訳にもいかない。タンパク質と野菜を沢山取るように、ヨシエさんに言われているのだ。
この無茶なランニングも、ヨシエさんの指導だ。
まずは、スタミナをつけること。試合まで、もう大して時間はないが、それでも練習後のランニングは必修にされた。
身体にはあまり良くないとヨシエさんも言っていたが、仕方のない話だ。時間が、あまりにも足りない。無茶も積極的に行っていかないと、勝ち目すらなくなってしまう。
それに、苦しくて苦しくて折れてしまいそうだが、だからと言ってさぼる気になどまったくならない。
ヨシエさんが、私に無茶を要求したのだ。できるできないを置いて、やれと言ってくれたのだ。やりきらない訳がない。
「ふうっ、ふうっ、ふうっ、ふうっ」
苦しい身体を抱えたまま、私は無理矢理に息を整える。まだ身体は無条件で酸素を欲しがっているが、人の気配が、私の身体を整え、戦いに備える。
こんな時間だ、せいぜい酔っぱらいか同じようにランニングをしている人だろうが、日頃の癖というものは怖いもので、息が切れていながらも、戦闘態勢に身体が入っている。
実際のところ、それで襲われた経験など皆無なのだが、アウトローを気取っていた自分は、人に知られたら恥ずかしさのあまり逃げ出したくなるようなことをいつも考えていたのだ。
「お、ランじゃないか。お前もジョギングか?」
と、その声で多少なりとも緊張していた意識は、一気に脱力する。
「……どうも」
あれから、初めて浩之先輩の顔を見るのだが、見た瞬間に、気恥ずかしさが私を猛烈に襲ってきた。
はげましてもらって、危機を脱した私としては、感謝はしているのだが、弱い部分を見られる、しかも男に見られるというのは、初めてのことであったのだし。
今でも、あのときの自分の饒舌ぶりを思い出すと、大声をあげて走り出したくなる。いや、恥の上塗りとわかっていても、そうせずにはおれない。それほど気恥ずかしいのだ。
いつもの自分は、無口で、必要以上は言葉を口にしない。必要分も言っていないようにさえ思うのに、あのときの自分は、おかしすぎた。
目をそらせば、その気恥ずかしさがばれるのでは、と何の根拠もなく思った私は、浩之先輩を睨む。目つきが自分でも悪いと思うが、そこから表情を変えようなどとすれば、仮面があっさりと壊れるのが予測できたので、どうしようもなかった。
「けっこう無茶してるみたいだな」
「……時間がないから」
今まで見られていたのか、と一瞬思ったが、さっき緊張が解けた瞬間から、身体は不作法に息を呑み続けている。嗚咽こそ無理に止めているが、余裕があるようには感じないだろう。
簡潔に答えてから、せめて敬語を使うべきだったかと思ったが、後の祭りだった。反射的に押忍と答えなくて良かったと考えるべきかもしれない。ずっと空手部に出ているので、私もだいぶ毒されて来ているのだから。
「俺もそうだけどさ、やっぱ時間が足りないよな」
わずかな時間で、エクストリームの本戦に届き、私の目にひいきがないのなら、本気で勝ちを狙っている、素人と言ってもいいはずの浩之先輩。
浩之先輩と同じと言われるのには、良い意味で多少抵抗がある。先輩に比べれば、私はまだまだだ。はっきり言って比較できるレベルではない。
そんな私の気持ちは、しかし言葉には出なかった。そもそも、相手を良く言うなどという言葉を、私は持っていない。私にとっては、ヨシエさんが特別なのだ。
結局、私は無愛想に頷いただけだった。そんな私にも、浩之先輩は気を悪くした風もなく、笑いかけてくれる。
「まあ、あんまり無茶するなよ」
そっくりそのまま返すべき言葉だ。浩之先輩の息も、かなりあがっている。昨日今日始めたばかりでもないだろう。そもそも、私よりも無茶をしなければいけない立場なのだから、当然していると見るべきだ。
などというつっこみが私の頭に浮かぶよりも早く、何故か私の鼓動は、その瞬間早くなった。息があがっている所為と言ってしまえば、そうなのだろうけれど。
それに、同じく「息があがっている所為で」、そんな気持ちは頭の中でさえ言葉にはならないのだし。
冷静に考えれば、ランニングにこのルートを入れていること自体、どこかおかしいような気もするのだ。
ヨシエさんに鍛えてもらえるという嬉しさと同じような気持ちで、ここに走ってくれば、浩之先輩に会えるという気持ちがまったくないと言うのは、いかな私でも言い切れない。
事実、今日ここで浩之先輩と会えたことで、私は明日もここまで走って来るだろう。吐きたくなるほどの疲労と苦痛をおしても。
……まるで、いや、止めておこう。
私の思考とリンクするように、ふいに人の気配がして、私は思考の渦から、現実に引き戻される。
いきなり現れたその人物を、私は邪魔と思ったが、いくら遅い時間でも、公園を通る人間が選べる訳でもなく、私は何の気なしにそちらに目をやる。
歩いて来たのは、知らない少女だった。寺女の制服を着ており、手にはバイオリンケースを持っている、見るからにお嬢様然とした少女。
知り合いでなかったことに、多少なりとも私は安堵感を覚えていた。暗くなった公園で、男と二人。鍛錬の途中で会っただけだと言って、うちのチームの人間が納得するとは思えない。そういう下世話な話題に上るのは、遠慮したいのだ。
浩之先輩の来た方から来た少女は、当然私達に用事がある訳でもなく、お嬢様らしく、軽く会釈をして、そのまま通り抜けようとする。
私は、つられて思わず頭を下げる。と、それを見て浩之先輩は振り返り、少女を見て、声をあげる。
「あ、初鹿……さん」
「え? 浩之、さん?」
少女が、驚いたように浩之先輩の方を見て、先輩の名前を呼ぶ。
それは、そのときにしてみれば、別に何でもない出会いだった。正直、邪魔だと心の奥で思った程度で、ただそれだけで、終わるものだと、そのときは思っていたのだ。
続く