「え? 浩之、さん?」
その少女は、驚いているようだった。わざとには見えない。
「てか、今日は偶然が重なるな。ランといい、初鹿さんといい」
偶然にもほどがある。しかし、それは多分偶然なのだと思う。いや、私だって偶然と思いたい。私のそれがそうであるように。
そう思うと、何故か無性に不安になるのだが、私はそれを頭の中からふりはらった。
初鹿と呼ばれた少女は、ちらりと私の方を見たが、その瞳には、笑み以上の表情は読み取れなかった。値踏みされたように見えたのは、正直私の見方に問題があったのだと思う。
「さんなんてつけなくてもいいですよ、浩之さん」
「でも、見たところ初鹿さん、年上だろ? 俺高二だし」
親しそうに話す割には、そんなに面識もない、そんな矛盾した会話だ。私は、それに入っていくことができない。
「そうなのですか? 確かに私は三年ですけど、どうして?」
「前は気付かなかったけどさ、学年章がついてる」
ちょいちょい、と浩之先輩は初鹿……さんづけをするのは何か嫌だが、浩之先輩がそう呼んでいる以上仕方ない、初鹿さんの首もとあたりを指さす。先輩と呼ぶのは願い下げだ。
「あ……本当です、言われてみればそうですね」
はにかむように笑う姿が、絵になる。今時、キャラを作ってさえこんな少女がいるのかと、その点については驚きさえ感じる。何より、見たところキャラを作っているようにも見えないのだから、本当に凄い。
「寺女の知り合いはいるけどさ、そいつはつけてなかったから気付かなかったぜ」
寺女の知り合い、と言われて、私は瞬間反応しそうになってしまった。考えてみれば、まず間違いなく来栖川綾香を指しているのだろうが、今の私は敏感に反応しすぎる。
「学年章については、他の方はあまり好まれないようですね。校則では、一応つけることになっているのですが」
こまったものです、と冗談っぽく言ってから、初鹿さんは初めて私の方に真正面から視線を向けて来た。私は、さっきからずっと初鹿さんを睨むように見ていたので、視線がぶつかる。
眼つけではないが、私からは視線をそらせるつもりはなかった。もっとも、そうやって敵対しているように見ているのは私だけで、初鹿さんの方からは、微笑みと共にやわらかな視線しか来ない。
「初めまして、初鹿といいます。浩之さんの……後輩の方ですか?」
半分当たりだった。少なくとも、年齢的な話を言えばビンゴだ。
しかし、正直、後輩かと尋ねられて、私は自分が思う以上に戸惑っていた。それは、隠すことも出来ずに表情にも出てしまったと思う。
浩之先輩が、私を見て苦笑する。それは、確かにできの悪い後輩に向けるような優しい笑みで、悪い気はしない、積極的に言えば嬉しかった。
が、恥ずかしさは消せるものではない。赤面しそうになる顔を、渋面で何とか隠すことができたかどうか。
私と浩之先輩の関係、確かにそれは命題だ。
学校で言えば、確かに学校も同じなので、先輩後輩だが、同じ部活に入っている訳ではない。マスカに関しても、浩之先輩は関係がないし、個人的付き合いに関しては、それ以下だ。私から見れば先輩の友人、浩之先輩から見れば友人の後輩、そんなところだ。
ましてや、夜の街で一方的に襲われた関係、と言いたくはない。冷静に考えると、何てことをしてしまったのだろうと、過去の自分を殴りつけたくなってくる。
「部活は違いますが……浩之先輩の、後輩で」
自分の声が硬くなっているのが自覚できる。まあ、それは別に問題ない。そもそも私は愛想の良い人間ではないのだ。初対面の人間に対してはこんなものだろう。
「まあ、紆余曲折あったしこれからもありそうだが、一応先輩らしい」
浩之先輩は、意地悪っぽく笑う。深い意味は何もないとわかってはいても、考えずにはおれない。
「……ランです」
初鹿さんから見れば浩之先輩との関係が聞きたかっただけであろうから、別に私の名前など必要ないのでは、とも思ったが、一応言っておく。向こうは名前を言ったのに、こちらか言わないのも何かと思ったし。
私の中では、宣戦布告をされたようにさえ思えたのだ。これで下がるなど、私のプライドが許さない。
「まあ、ということは、ランさんも何か格闘技を?」
屈託ない微笑み。自然に、ただ嬉しそうにする話。柔らかいと表現するのが一番ピンと来る雰囲気。
意識している自分がバカらしくなってくるような無邪気さだった。いや、自分は多分本当にバカなのだろうが。
「んー、部活は空手やってるよな」
まさか、ケンカと言う訳にもいかなかったのだろう、浩之先輩が言葉を選んで言ってくれる。私としては、ケンカと言われても困りはしないのだが、確かに寺女のお嬢様相手ではいささか乱暴過ぎる話題だ。
「正確には、空手部のヨシエさんにご教授願っているという形ですが」
入部はしているものの、ほとんどヨシエさんに教えてもらっているだけと言うのが正しい。
「おいおい、そんなうまくいってないような言い方するなよ。少なくとも、俺が見たところ、部活ではうまくやってたろ?」
「見ていたんですか?」
私は思わず聞いてしまった。自意識過剰にもほどがある。しかし、浩之先輩は、ありがたいことに、深くは考えなかったようだった。
「前に行ったときな」
ビレンが来た初日の話だ。あれ以外で浩之先輩を部活で見たことはない。
「仲の悪いヤツもいなさそうだったしな。むしろ、楽しそうじゃなかったか?」
「まあ、一部を除いて、他の部員とはうまくやっていますけど……」
一部と言うのは、言わずもがな、御木本のことだ。あの男だけは、どうしても好きになれない。反対に、あの男は部活では他の部員と、まわりから見れば私ともうまくやっているようにさえ見える。
タイプ的に言えば、浩之先輩と御木本は似たところがある。
不思議なものだ。はっきり言えば、御木本と同じで、浩之先輩にはナンパな雰囲気がある。目の前にいる初鹿さんを見れば一目瞭然。にも関わらず、今、浩之先輩とあの男を一緒に考えた自分に腹が立っているのだから。
「ま、ランには空手は舞台じゃないんだろうけどさ、お前も十分空手部の一員ってことさ」
「……そうでしょうか?」
空手部の一員。そう言われると、悪い気はしない。気のいい人達の集まりだし、あそこを仕切っているのはヨシエさんだ。嬉しくない訳がない。
「ふふふっ」
急に、横で静かにしていた初鹿さんが、浩之先輩を見ながら笑いだす。
「ん? 何か変なこと言ったか、俺?」
「いえ、そうではないのです。気を悪くしたならあやまります」
それでも、初鹿さんは笑いを止めない。気を悪くする気にはならなかった。初鹿さんは、酷く嬉しそうに笑う。聞いているこちらの方が楽しくなって来るような笑いなのだ。
「ふふふっ、言葉ではどう言っても、浩之さん、本当に先輩しているんですもの。ちゃんと後輩をかわいがっているのがよく分かりますわ」
指摘されて、なるほど、そうかと思えると同時に、顔が熱くなる。暗くて良かった、と本気で思った。
「おいおい、もしそうだとしても、そこは笑うところじゃないだろ?」
浩之先輩の抗議に、初鹿さんは笑顔と笑い声で答える。
「ふふふっ、ごめんなさい。浩之さんが、先輩風を吹かせているのが、妙に微笑ましくて」
その言葉に、嬉しいながらも、どこかカチンと来ている私がいた。何故なのかは、あえて言いはしないが。
続く