「よかったら、ここで聞かせてもらせませんか?」
唐突だっただろうか? いや、私の思考自体が唐突であった自覚はあった。
それでも、唐突なその思考の先を、私は笑って否定することができなかったのだ。
私と浩之先輩がここに、この時間にいることを知っている人間なんて、二人の他には、初鹿さんしかありえない。
しかし、彼女がどこかでばらしたと考えるよりも先に、彼女本人が、チェーンソーではないのかと疑っている私は、変なのかもしれない。
確かに、チェーンソーはそこまで体格の良くはない女性というのはわかっているが、それにしたって結びつけるには貧弱過ぎる話だ。
もちろん、無理はあるが、私なりに根拠というか、不安があるのだ。
いつも手にしている、バイオリンケース。
チェーンというものは、ケンカや抗争ではけっこう見る武器ではあるが、そんなに怖いものではない。
当たればもちろん痛いが、その構造上、どうしても振りかぶらなければならず、私にしてみれば避けるのはそんなに難しくない。
そして、携帯して隠すことのできるナイフと違うところは、どうやってもかさばるということだ。
とくに、音が良くない。自分の腕や腰に巻き付けようが、どうやってもジャラジャラと音をたてるのだ。隠密性については最悪の凶器だ。
だから、正体不明であるチェーンソーが持つべき武器ではない。どんなに隠しても、その音は必ず相手に見抜かれる。
その点を唯一解消する方法が、初鹿の手にいつももたれているのだ。疑うには、十分な理由。
「え……そんな、聞かせられるほどの腕はないんですよ」
ちょっと困ったように、初鹿さんは答える。その一瞬の間を、私は見逃さなかった。
「そんなことないですよ、聞いてみたいです」
浩之先輩が、一瞬怪訝な顔をしたのが目に入る。それはそうだろう、浩之先輩相手ならともかく、私は無口なのだ。こうやって、むしろ普通の会話をする方がおかしいし、私がバイオリンなどに興味を持つことにも違和感を感じているのだろう。
「でも……」
初鹿さんの歯切れが、会って初めて悪くなる。
バイオリンケースならば、鎖を隠すこともできるのでは? という予測は、適当にたてたものだった。しかし、初鹿さんがバイオリンをひくのをためらえばためらうほど、それは適当とは言えなくなっていく。
無表情を装いながらも、私は震えそうになる脚を必死で止めていた。
もし、初鹿さんの持つバイオリンケースの中にあるものが、鎖だったならば、それで私はどうしようと言うのだろうか?
チェーンソーを浩之先輩の近くに置いておくのは、危険だ。
それだけ考えて、私は行動していたが、初鹿さんが、本当にチェーンソーだった場合に、私に何ができる?
鎖を装備する前に、不意打ちを食らわせる?
何をバカな、と思う。鎖をつけるまでは時間はあるかもしれない。しかし、チェーンソーともあろう者がその程度でどうかなるか?
鎖の端でも手に握れば、チェーンソーならすぐに攻撃に使えるだろう。浩之先輩なら、それにも反応できるかもしれないけれど、私では無理だ。
一瞬で私が倒されたとして、その後浩之先輩は逃げてくれるか?
……否だ。付き合いは全然長くない浩之先輩だが、私を捨て置いて逃げるという選択肢など、頭に浮かべるとも思えない。まあ、だからこそ……
脚からじんわりと伝わってくる冬の寒さのように、私の身体に恐怖が流れ込んでくる。
しかし、不確定要素をこのまま放っておくわけにはいかない。
もし、本物ならば、前に出よう。私が一瞬でも相手の動きを封じることができれば、浩之先輩ならどうにかできると信じて。
私は、大げさに言えば、特攻して死ぬことを覚悟した。
「それに、こんな時間に外でひくと、迷惑になりますし」
まだ、初鹿さんがいい訳をしている。止めて欲しい、と身体は思っているようだった。中にバイオリンが入っていれば、危機は去るのだ、そうあって欲しいと感じていることだろう。
しかし、私は違う。正直に言って、初鹿さんがチェーンソーであることを望んでいる。恐怖で身体が震えようと、それが私の心なのだ。
初鹿さんがチェーンソーならば、もう初鹿さんはここには来ないだろうから。
それを望むのは、悪いことなのだろうか?
「そういや、いつも大事そうにあつかってるよな、それ」
浩之先輩は、バイオリンケースに目を向け、不意に核心を突くような言葉を口にした。
それは、そうだ。いくら防音ができるバイオリンケースでも、大きく揺らせば音を殺しきることができない。
気付いているのか、気付いていないのか、浩之先輩は、致命的な部分を指摘してしまったのだ。
自覚があるのなら、いい。でも、もし自覚がないとしたら……
しばらく考えていた初鹿さんは、ふいに、すっと肩の力を抜いて、ぎこちなく笑った。
「……ええ、私の宝物ですから」
ドクンッ、と私の胸が高鳴ったのは、そんな初鹿さんを綺麗と思ったからだ。
危ない、私は尊敬しやすいというか、惚れやすいところがあるようだった。それが男だろうが、女だろうが関係ない。
一度尊敬してしまうと、完璧に私はその人の味方にまわってしまう。でも、初鹿さんが本物であれば、そういう訳にはいかないのだ。
一瞬取り乱しそうになった私だが、すぐに自分のすべきことを考えて、少しでも初鹿さんの近くに行こうとする。
浩之先輩が、初鹿さんを疑っているのならいい。しかし、疑っていないのなら、必ず隙ができる。しかし、最初のターゲットが私なら、浩之先輩が我に返る時間はあるだろう。
「……そこまで言うのなら、わかりました、ひきます。でも、期待しないで下さいね。私の腕は、私が一番理解していますから」
……え?
私は慌てた。きっと、何かといい訳をつけて、ここではバイオリンケースを開かないと思っていたのだ。
私の予想、いや、希望を無視するように、初鹿さんはその選択肢を選んだ。
見せてくれないことの方が、当然良かったのだ。ここで正体がばれるのと、ばれないでもう一度襲撃されるのと、はっきり言ってしまえば、どちらでも危険は変わりない。
ただ、多少なりとも牽制になればいい、と私の臆病な心は本当は考えていたのだ。でも、それすら初鹿さんは裏切る。
コトリ、とそのケースを、地面に置く。
金属がこすれる音が、どこからか私の耳に響いた気がした。
ごくりっ、と緊張を隠しきれなくなった私は、つばを飲み込む。そして、身体の筋肉に緊張を走らせる。
もったいつけることなく、初鹿さんはバイオリンケースの蓋に手をかけた。
不用意に、浩之先輩が身を乗り出す。ただ興味がわいただけの、無意識の行動に見えた。
駄目、私が前に出なくてはいけないのだ。
押し返す訳にもいかず、私がここでは致命的な隙ができたその瞬間を狙うように、初鹿さんはバイオリンケースの蓋を、そっと開け放った。
続く